サンテックスは、いろいろな意味で II/33 部隊のお荷物でした。アウローラ空港での離陸失敗事故の後遺症のため腰や左腕が不自由で、自分一人では操縦席への出入りもままならず、飛行服を着ることさえできないありさまなのです。おまけに、基準オーバーのデカ過ぎる体躯には操縦席は狭すぎて、後方直視確認すらできません。
案の定、実戦配備されてすぐに着陸失敗で飛行機を大破させて除隊処分になりました。高級軍人に(おそらく裏では、ネリーを介して政治家たちにも)さまざまな働きかけをして、配置転換無視までして II/33 部隊へ舞い戻ってきました。行状は改まってはいませんでした。軍律違反・命令無視は日常茶飯。一旦飛び立ってしまったら、どこを飛んでいるのやら知れたものではありません。飛行中の操縦席で小説を読んだり、持ち込んだ紙に絵や文章を書き散らしたり、傍若無人の振る舞いは一向に改まりません。
経緯がよく判らないのですが、飛行停止・謹慎処分(隊を離れて他所の街に移り住んでいます。実際は除隊処分でした)を解除するについて、「残り飛行回数5回」という、理解しがたい条件がついていました。もちろん、この制限回数も無視して、彼は飛び続けます。II/33 部隊は困り果てました。そして、軍法をもって地上勤務に縛り付けるために、部隊上層部は彼に重大機密を教えるという方法を画策したのです。
操縦士は、敵地での墜落・不時着によって捕虜となり、尋問を受ける危険があります。当然、拷問や自白剤の使用等、何でもありの取り調べです。そのために、敵に知られてはまずい軍事機密を知っている幹部は、空中勤務を禁止されることになっていました。そこで彼に、秘密事項を教えてしまおうというわけです。
サンテックスが犯した数々の軍律違反は、軍関係者のさまざまな嘘によって糊塗されています。彼の最後の出撃は、本来彼の順番ではないのに、なぜか搭乗割りを変更して、彼が繰り上げ出撃したことになっています。私はこの証言を疑っています。サンテックスは、疾うに搭乗割りから外されていたはずだと私は思います。つまり、制限回数を使い切って *、地上勤務にまわされたのに、彼のわがままで搭乗を続けていたというわけです。でもそれは、上層部の黙認の下に行われていました。出撃に際して、隊長のガヴォワールが彼に付き添って細かな指示をし、離陸を見送っているからです。
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* 6月6日「5回目」の出撃。6月下旬以降、偵察目標はドラグーン作戦に関係する場所ばかり。
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サンテックス最期の一日、彼の態度や行状が(一晩行方不明であったことも含めて)異常であったと伝えられています。上記のような事情があったとすれば、「自殺説」【敵に身を曝すという「受動的自殺」も含まれます】は極めて強い蓋然性をもちます。「もう飛べない」という境遇は、彼の異常な飛行愛好癖にとって、破滅的なものだった筈です。私だけの想像ではないのでしょう。証拠・証言がありませんから、だれも上記のような推測を言挙げしませんが、「自殺説」は、詳しく研究した人の間で根強く支持される説のひとつなのです。
さてそれでは、彼に漏らされた「軍事機密」とはどのようなものだったのでしょう? そして、(おそらく、本当は、その日飛ぶ筈だった若い当番操縦士に下令された)当日の偵察目標、グルノーブル・シャンベリー・アヌシーは、どのような意味を持っていたのでしょう? その答えが、“ドラグーン作戦”なのです。
1944年6月6のノルマンディー上陸作戦は非常に有名ですが、地中海側でも大規模な南フランス上陸作戦が展開されました。1944年8月15日に開始されたドラグーン作戦(Operation Dragoon ; 竜騎兵作戦)です。

14日の夜半、予定位置に到着して開始時間を待ちました。上図に示すように、7つの上陸部隊と、空挺部隊(落下傘・グライダー降下。グライダー部隊は、降下地点が狭かったため400機中50機が大破するありさまだった)が参加。作戦自体にはかなり無理があり、戦力を抽出されたため、イタリア戦線はゴシック線で膠着状態に陥いってイタリア開放が大幅に遅れたほど。しかし、プロヴァンスに展開していたドイツ軍は二線級であったため、大した抵抗もなく撤退し、それを追っての追撃戦となりました。上陸・降下作戦は、ドラギニャン Draguignan から東と南に直線を伸ばした扇形の地域になります。当然、立案段階での情報収集はさまざまな方法を駆使して行われ、サンテックスが所属した部隊もその一翼を担います。

グルノーブル・シャンベリー・アヌシーが絡む戦闘推移の大筋は、図に示すようなものでした。すなわち、ドイツ軍(の一部)がデュランス河を遡ってサヴォワ経由でアルザス地方へ向けて撤退し、それを追う連合軍主力は、ローヌ川沿いに北上して、支流のひとつ、イゼール川の合流点から同川沿いにグルノーブルへ進出しました。図は戦闘の推移を再構成したもので、ドイツ軍の主力はローヌ川沿いを北上・撤退(下欄参照)しました。いずれにせよ、連合軍側の捕捉殲滅作戦は奏功しませんでしたが、ドラグーン作戦の終始説明はこのサイトの意図するところではありませんので、詳しくは述べません。
![]() Georg Pemler 著;国道7号線 表紙
「リヨンにあったレーダーがサンテックス機を捕らえていた」とされる記述を確認するために、ドイツの古本屋さんから取り寄せた本の表紙。青い矢印がドイツ軍の撤退路、赤い矢印が連合軍の進撃路を表します。地図は見難いでしょうが、リヨン湾の奥から絡まり合うように北上する青と赤の矢印が、ローヌ川沿いの国道7号線です。青い矢印の二つ目の頭がリヨンの位置に相当します。
この本は、著者の戦死した友人3人に捧げられていますが、そのうちの一人は、あの「 ハイヒェレ説」に利用されてしまったロベルト・ハイヒェレ士官候補生(曹長相当)です。Fw 190A や Fw190D の名前も挙がっていますので、リヨンのレーダーサイトのことも含め、それぞれの項目で関連事項を述べるつもりです。 |
サンテックスが所属した II/33 部隊に関していえば、上陸作戦が始まる2週間以上前の時点での、仕上げの情報収集が行われていました。当然、ローヌ川沿いの街道も何度も偵察していたことでしょうが、ここでは、サンテックスの死が絡んだミッションに話を絞ります。偵察目標であったフランス内陸部、グルノーブル・シャンベリー・アヌシーの各都市がどのような意味を持つかは明らかでしょう。(因みに、グルノーブル・アヌシー間は約90km,アヌシー・リヨン間は約100km です。)
その後に起きる地上軍の動きはこの際無視していただいて、II/33 偵察飛行隊の意図は、この3都市を結ぶ街道とその周辺を偵察することであったのは疑いを容れません。サンテクス最後の出撃は、その使命を帯びた飛行であった筈です。ボルゴ基地を発進して目標地域への航路は、通常であれば上図の赤い直線で表される経路です。サンテックスが命令に忠実であれば、この赤い線から大きく逸脱することはなかった筈です。
この時期、II/33 部隊がドラグーン作戦に深く関わっていたことは明らかで、アヌシー方面の偵察行は、同作戦にとって必要かつ重要な意味を持つものでした。(ドイツ軍撤退路としてよりは、増援部隊の進出路として情報収集していたのであろうと思われます。)
リッペルト氏の述べるところに依れば、サンテックスはツーロン上空にいたことになります。単行本や週刊誌が未入手ですから、どのようなタイムコースでここに至ったのかは、推測する手掛かりすらありません。ボルゴからマルセイユへ直行したのであれば、?マークを附した青い点線の航路を飛んだものと思われます。
| 謎:一体なぜあんなところを飛んでいたのか? |
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