サンテックスなんて

誰も知らない

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 人は誰でも、「自分は特別なのだ」という思いと「自分は標準的な人間である」という、互いに矛盾する自己評価を、無意識のうちに使い分けています。サンテックスファンがサンテックスについて語るとき、問題になるのは後者です。
 「サンテックスは文豪である」「サンテックスは世界的に名を知られている」「サンテックスファンはとても多い」という、事実とかけ離れた勝手な判断が、まるで自明のことのように前提とされています。それが全くの間違いであることを、まずもって理解していただかなくてはなりません。
 ヨーロッパ世界は、多くの「文豪」を輩出して、現代知的世界に大きな影響を与えました。残念ながらサンテックスは「文豪」の中には入りません。驚異的な売り上げを誇っているのは Le Petit Prince だけです。ベストセラーではあっても「夜間飛行」や「人間の土地」は、「文豪」と呼べるほどの質と量を維持しているとは言い難いのです。

 30年近く昔の話になりますが、私が初めてリヨンに(11箇月)住んだとき、折を見てはサンテックスの生家を探し回りました。街で出会った人のほとんどは、Antoine de Saint-Exupéry の名を知りませんでした。私は大学(医学部)の研究室におりました。インテリゲンチャの名恥じない人が大勢います。その人達の中でさえ、サンテックスの名を知っている人は、極めて少数でした。本当に稀に、名前を知っている人に出会っても、彼がリヨン生まれであることを知っている人は居ませんでした。10年経って、またリヨンに住むことになりました。事情は少しも変わってはいませんでした。市の中心部、ベルクール広場の東南隅にある観光案内所に行って、Peyrat 通りの所在とサンテックス生家の場所について尋ねました。ボランティアまたはアルバイトと思しい係員4人ほどが集まってきて地図を広げたので「地図はもう丹念に調べたけれど見つけられない」と告げると、「じゃあ、そんな名前の通りはないんだ」という答え。サンテックスの生家は誰も知らなかったのですが、衝立の陰から年配の女性が現れて「ここから東に車で1時間ほど行ったところに St-Maurice-de-Remeins という街がある。そこに彼の生家がある」と教えてくれました。「そこで少年時代を過ごしたのは事実だけれど、生まれたのはリヨンなんですよ。St-Maurice-de-Remeins にはもう何度も行きました」と言ったら、彼女は肩をすくめて見せました【実は数箇月後に判ったのですが、その案内所の背後(南)を走る Fochier 通りが旧 Peyrat 通りでした。生家は西へ300メートルほど、外へ出れば見えている建物だったのです】。生誕の地ですらこのありさまでした。現在様変わりしているのは、生誕100周年記念のお祭りを大々的に行ってからのこと、それも Le Petit Prince の著者としてのことです。【2000年に、生家に面したFochier 通り(旧 Peyrat 通り)は、サンテグジュペリ通りと再度名称変更しました。】
 Le Petit Prince ファンは多いでしょう。でもそれは、サンテックスファンではありません。ことに、1944年のサンテックス最期の時を議論する時、その時点ではドイツにもフランスにも Le Petit Prince の読者はいないのですから、現在のように名を知られていたわけではないことを、しっかり認識しておく必要があります。【ただし、「夜間飛行」「人間の土地」の2作や、売れっ子パイロットとしての人気と、各種新聞に書きまくったルポルタージュ類(とりわけ1936年初頭、リビア砂漠での遭難と生還に関する新聞報道、および、その後に自身で書き散らした遭難・生還記)での知名度は、現在よりもずっと高かったことも、知っておかねばなりません。】

ドイツ空軍内にもサンテックスファンが「多く」いた ???

 一体誰がこのようなことを言い出したのか定かではありませんが、実態とかけ離れた作り話の典型です。

 7月31日、サンテックスが未帰還となり、地中海沿岸の連合軍基地宛てに、コルシカ発の緊急電での問い合わせとそれに対する答えが飛び交います。ドイツ軍は首をひねりました。「サンテグジュペリ? 敵軍にそんな将軍がいたか? 作戦指令部員かな? どちらにしても、聞いたことがない名前だな」
 緊急電で問い合わせをするほどの名前なのですから、気になります。情報部が調べ始めました。8月3日、2./NAG 13 にいたペムラーの許へ航空艦隊直々のものと、航空兵師団経由のものと、2本の電話がかかってきます:

誰もサンテックスを知らなかった

 「サンテグジュペリという男を知っているか?」と電話で尋ねられたペムラーが、「“風と砂と星と”を書いた小説家で、パリで買った“夜間飛行”を所持している」と応えると:

 „ Diese Leutnante! Hier kennt den Kerl keiner.“ (Georg Pemler; Rout Nationale Nr.7, 1985, p.25)
 「やれやれ、ありがたい!/(やった!)* ここでは誰もその男のことを知らないんだ。」

* Diese Leutnante は、直訳では「中尉さんよ!」/「あっぱれ、中尉!」(ペムラーは中尉。電話の相手は中佐)“Oh my God !”と同じで、直訳したのでは意味が取れない。

 と、返事が返ってきました。

 つまり、あちこち電話をかけまくること3日間、ドイツ軍内に、サンテックスの名前を知っている者はなかなか見つからなかったのです。

「サンテックスとは戦いたくない」と語ったドイツ軍兵士がいた ???

 この言葉も出典不明です。上欄のような実態を考えれば、少なくともドイツ軍一般の風潮であろう筈はありません。

 太平洋戦争開戦前の日本海軍(特に上層部)では、「米国はともかく、英国海軍とは戦いたくないなぁ」という気分が一般的でした。“帝国海軍 Imperial Navy は英国海軍 Royal Navy の優等生(または傑作)”と、世界中が評価していたのです。
 日露戦争当時のロシアは、艦船の戦闘能力も戦略・運用能力も世界第一級と自他共に認め、世界で初めて、バルト海のリバウから日本海のウラジオストクまで、大艦隊による地球を半周する大航海を敢行しました。その無敵の第2・第3太平洋艦隊(日本での通称はバルチック艦隊)を対馬沖に迎え撃ち、未曾有のパーフェクトゲームを演じた聯合艦隊は、一躍「超一流」に躍り出ました。
 その日本海軍を育てたのは英国海軍でした。英国留学経験を持つ士官も少なくありません。日本海軍にとって英国海軍は、措く能わざる、大恩ある先生なのです。その英国海軍と干戈を交えようとは、思ってもみない事態でした。避けられるものなら避けたい。帝国海軍軍人ならば、そう思わないものは一人もいなかったことでしょう。しかし、開戦に至ったからには、そのような女々しい考えは振り捨てられました。遠慮会釈もあらばこそ、敵が降伏するまでは徹底的に攻撃するのが軍人の使命です。手加減したのでは相手に失礼。国籍・民族を問わない、軍人の性なのです。
 戦争(とりわけ実際の戦闘)は、始まってしまえばすべての様相を一変させます。どんなに敬愛する相手であろうとも、敵である以上、躊躇はあり得ません。ドイツ軍兵士がサンテックスと戦場でまみえて、引き金を引くのをためらったとは、とうてい思えないのです。

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