サンテックスを撃墜した男?

検 証

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 敗戦直後の、ナチ狩りが横行していた時代ならともかく、落ち着きを取り戻してからの世間では、誰も「サンテックス機を撃墜した」ことを責めたりはしません。両者共に軍人である限り、戦場では当たり前の任務を果たしただけなのですから。しかも、リッペルト氏はテレビ局に勤めており、そのような時代の雰囲気は敏感に感じとっていたはずの人なのです。
 「自分がサンテックスを撃墜したのだ」と確信していたのなら、それを告白する機会は今までに複数回あった筈。64年間も沈黙を守り続けるのは、よほどの理由と強い意志がなければできないことです。サンテックスに対する強烈な思い入れと、罪の意識と呼んで良いほどの、激しい自責の念が感じ取られます。少なくとも、ありきたりの人ではないのでしょう。【つまり、彼の所行を、普通の元ドイツ軍兵士に敷衍することは妥当ではありません。】

 「彼と知っていたら撃たなかった」と伝えられていますが、28機撃墜記録保持者の言葉とも思われません。もし本当にそう考えたのであれば、軍人として失格であると同時に、許し難い差別でもあります。「若い頃にサンテックスの作品(夜間飛行/人間の土地)を読んだ」というインテリゲンチャ*が、そんな思想を抱くことがあるのでしょうか?

*  最近は日本でも書物の価格が高くなってきましたが、それでもまだ、読書人口が酷く低いわけではありません。先進諸国では、随分昔から書籍は高額で、普及の足枷になっていました。識字率も100%というわけではないのです。
 白人社会での「文学作品」読者は、極めて少数派に属します。その代わり(というのは変な話ですが)、その「少数派」の知識・判断レベルは、日本の“知識階級”なぞ足許にも及ばない広さと深さをもっています。
 更に、時代の違いを考慮する必要があります。日本でも、旧制中学校・旧制高等学校の生徒・学生は、現在の高校生・大学生とはまったく別物です。当時のドイツも事情は同じで、高校生・大学生はエリートでした。彼らが遺し、第一世界大戦後に編集・出版された「戦没学生の手記」は世界中で読まれて、深い感銘と影響を与えたのです。
 リッペルトの学歴がどのようなものであるかは知りませんが、あの時代のドイツで「夜間飛行」や「人間の土地」を読むほどの人は、「庶民」ではありません。当然、それなりの「哲学」を有していたはずです。


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2000メートル上空から見たツーロン港(視野の一部)  (Source : NASA) 
【お使いのモニター解像度やウインドウの大きさによって違った印象になります】

 ツーロン(トゥーロン/トゥウロン)は重要軍港でした。望遠レンズ付きのカメラを備えた写真偵察機に侵入されたのでは、裸も同然です。偵察機であろうとなかろうと、敵機が2000メートル上空(肉眼観察でも上図のような状態。中央付近、2本並んだドックのうち右側に航空母艦が入渠しているのが判りますか?)を飛んでいるのに「立ち去らなければ撃つしかない」という間抜けな判断はあり得ません。たとえ燃料切れ寸前の追撃戦になろうとも、撃墜するのが戦闘機の役目です。【リッペルト氏の証言は、64年間の時間経過を経てかすみ、かなり歪曲されている可能性があります。】

 NASA のデータが間違っているとは思いませんが、上の画像は視野の中央部だけを切り取って示していますから、(拡大はしていないのに)望遠効果を作り出してしまいます。ヒトの奥行き距離感覚は、垂直方向と水平方向で異なる(昼間と夜間でも違います)ので、参考までに、主要都市で水平距離約 2km の距離の代表例を挙げておきます。その地点に立って、目標地点の街を視線に直角に立ち上げたらどのように見えるか(水平方向感覚)を想像してみて下さい。
札 幌JR札幌駅 ↔ 地下鉄なかじまこうえん駅
仙 台JR仙台駅 ↔ 青葉城跡
新 潟JR新潟駅 ↔ 市役所・北越製紙・フェリー埠頭
東 京JR東京駅 ↔ JR秋葉原駅・JR新橋駅
JR新宿駅 ↔ JR原宿駅
霞ヶ関ビル ↔ 東京タワー ↔ 六本木ヒルズ ↔ 赤坂サカス
横 浜JR横浜駅 ↔ JR桜木町駅・横浜ランドマークタワー
JR関内駅 ↔ 氷川丸
金 沢JR金沢駅 ↔ 金沢城跡
市中心部の犀川 ↔ 浅野川
名古屋JR名古屋駅 ↔ 名古屋城
テレビ塔 ↔ 名古屋城・鶴舞公園
京 都清水寺 ↔ 四条河原町
大 阪梅田 ↔ 十三
難波 ↔ 天王寺公園
神 戸JR神戸駅 ↔ JR三宮駅
JR新神戸駅 ↔ 市役所
広 島原爆ドーム ↔ JRよこがわ駅
福 岡JR博多駅 ↔ 西鉄福岡(天神)駅
鹿児島JR鹿児島中央駅 ↔ 山形屋
JR鹿児島駅 ↔ 尚古集成館(磯庭園)

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引き揚げた乗機残骸から推定される墜落海域。 ツーロン -
マルセイユ間:50km。時速 300km でも10分間の距離。 

 飛行機乗りがいう「ツーロン上空」はツーロン市街地直上を意味するとは限りませんから、撃墜・海没位置が上図の海域である可能性は充分あります。

 その代わり、晴れた日の正午近く、陸上部(または海岸近くの)上空2000メートルの撃墜劇に目撃者がいないのはあり得ないことです (リッペルトが接近する以前から、低空を飛ぶ特徴的な機影の F5B は注目を集めていた筈です)。ツーロン市街地から目視可能な位置ならば尚更のこと、何百人もの目撃証言が集まりましょう。そのような空中戦の目撃証言は、今までありません (あれば、疾うに「その戦闘機と操縦者」の探索がなされている筈)。リッペルト証言はスタート時点で既に、滅茶苦茶なマイナス点を背負っているのです。

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リッペルト説 疑惑点

 リッペルト説には、信用するわけには行かない疑問点がいっぱいです。受け入れられるためには、これらの諸点をクリアーしなければなりません。疑惑を晴らすことができなければ、破綻点に移行します。納得できる説明ができれば、リッペルト説を支持する補強点になります。【「人格まで疑うのか!」とお叱りを受けそうなものまで含んでおりますが、こうしたものまで入れないと、補強/支持点がゼロになってしまいかねません。証拠と呼べるものはひとつもなく、証言を“信じるか信じないか”の一点だけが論争の焦点という、宗教論争に似た様相を呈しているからです。逆に、このような人格論までが破綻点に回るようでは、リッペルト説が依って立つべき瀬はまったくありません。】

 件の書物はこれから精読し始めます。以下に列挙したのは、予め考えられた問題点で、これらの点に留意しつつ、検証を行いながら読み進む要点になります。読んだ結果、それぞれが、破綻点か補強点かを判断して振り分けて行くつもりです。

 「若い頃」サンテックス作品を読んだというのは本当か?
 既に述べたように、時期的に可能性があるのは「南方郵便機」「夜間飛行」「人間の土地」の3作【おそらくは後2者。「南方郵便機」に感激するようであれば、リッペルトの読解力には疑問符が付く】です。リッペルト(1922.05.24 生まれ。したがって、2008年時点で85歳。1941年にドイツ空軍の戦闘機搭乗員養成課程に入学)の「若い頃」、ドイツは経済的にも政治的にも大変な時期でした。それでなくとも、ヨーロッパでは(伝統的に)書物は高額です。そして、実質的な階級制度も残っており、文学作品を読む階層は決して多くはありません。虚言癖の有無が心配されます。
 
 

 なぜ今まで沈黙を守ったのか?
 「ナチ狩り」狂乱の風が吹き荒れた時代はあったでしょう。その時期が過ぎた後は、客観的に見て、「サンテックスを撃墜した」ことを隠す必要はなかったはずです。しかも、放送局に勤めていたリッペルトは、誰よりもそうした雰囲気を感じ取れる立場にありました。そして、偽の「カミングアウト」劇や出版は複数ありました。「それは違う。撃墜したのは自分だ」と言うべき時です。もし「他人が罪を背負ってくれるなら好都合だ」と考えたのであれば、卑怯・無責任の誹りを免れ得ないでしょう。そのような人の「証言」をどれほど信用してよいものか、問題が残ります。
 
 

 「彼と知っていたら撃たなかった」とは、まともな戦闘機乗り失格ではないか?
 ドイツ空軍に限らず、見敵必討は軍人の行動規範。避けられない殺人を厭うのでは兵士の資格はありません。まして、リッペルトは28機撃墜の記録保持者です。何の迷うところがありましょう。基地空域警戒のために迎撃出撃して、軍港上空に敵機を発見しながらそれを見逃すことは、どのような理由があろうと起こり得ることではありません。「彼と知っていたら撃たなかった」と「そのとき」(数日後に「彼」と知ったとき)考えたというのは、絶対にないと断言できます。今になってそのようなことを言うのは、性格異常、または加齢による記憶の粉飾があると断ぜざるを得ず、証言の信憑性が疑われます。
 
 

 正確な離陸時刻・会敵時刻は?
 参照する資料によって Bf-109 の航続距離が異なります。Bf-109 は小型戦闘機で、設計上、翼内に燃料タンクを配する余地がなく、滞空時間の短い迎撃戦闘機仕様でした。【もちろん、型や武装の種類と弾数(機体重量に関係する)・機体の個性・操縦者の技量・その他、さまざまな要因が絡み、一概に片付けられません。】
 一般的には、巡航速度 545km/h で航続 560 - 720 km、増槽をつけても 1000km 程度とされています。索敵・警戒や遠距離侵攻作戦ならばともかく、警報を受けての迎撃(スクランブル発進)で増加タンクをつけることは考えられません(整備時間が惜しい,飛行速度が低下して、上空占位が遅れる,戦闘開始に際しては増槽を捨てねばならず、残存燃料とジュラルミンが無駄になる)し、緊急に上空占位を図らねばなりませんから、フルスロットルでの急上昇を余儀なくされ、燃料消費はかなりのものだった筈。リッペルトの滞空時間は1時間を切っていたと推測されます。

 会敵時刻は「正午少し前」と伝えられます(話のつじつまから、発進は11時過ぎだった筈)。レーダーサイトからの警報が何時頃だったのか、そして、「迎撃」が、待ち伏せ迎撃だったのか、基地の護衛ピケットだったのかによって、発進時刻は異なったことでしょう。さまざまな時刻・時間の辻褄が合うかどうか . . . 。【滞空時間の短い迎撃戦闘機は、想定される敵機到着時刻に合わせて発進しなければならない。「敵が現れなかったので帰途についた」という言明とも一致する】
 
 

 公式の交戦記録/撃墜記録/ガンカメラ記録フィルムがないのはなぜか?
 ドイツ側の公式記録類は、7月31日の該当空域で、撃墜戦果はおろか、交戦さえなかったと告げています【連合軍側も(レーダー監視・無線交信・ドイツ戦闘機無線傍受を含めて)同じです】。また当日、リッペルトの愛機は“いつものとおり”ガンカメラを装着していたと考えられます(少なくとも、7月24日までは“いつも”記録を残しています)。カメラが故障したのでない限り、記録フィルムは現像され、ディジョン後退時に無事移動したはずです。公式記録もない、ガンカメラも作動しなかった、と言うのでは、証言は大いに疑わしいものになります。
 
 

 なぜ単機でいたのか?
 ドイツ戦闘機の単機行動は考えられません。最低でも2機編隊 (Rotte) 【これが最小単位。通常ならば、このロッテ二組で計4機の戦闘機小隊(Schwarm)を組む】で迎撃に上がったはずです。晴天の日中、会敵していないのに僚機とはぐれることなぞ起こりません。撃墜すれば、(たとえガンカメラが作動しなくとも)その僚機操縦者が撃墜の証言と確認書類への署名をします。格闘戦に引き込まれて僚機を見失ったのでもないのに、戦闘機が単機でウロウロしていたというのは極めて信じがたい情景描写なのです。
 
 

 本当に「サンテックス機の国籍マーク(フランス軍)を確認した」のか? サンテックス機が増槽をつけていたか否か覚えているか?
 当日のサンテックス機は、アメリカ軍のマークを付けていたのではないかという指摘が現れました【このページはじめの「中立的意見」欄:ヘルマン・シュライバー博士 意見 参照】。もしこれが事実であると確認され、リッペルト証言と矛盾を来せば、証言の重要な部分が崩れることになります。【たとえば、7月14日はアメリカ軍の機体(当然、国籍識別標識はアメリカ軍標識)を操縦して出撃しています。実はこの標識問題については、日本でも模型作製愛好者の間で話題になったことがあり、サン=テグジュぺリ 最後の機体 に、20007.09.15 時点でのそれまでの議論が纏められています。】
 増槽の記憶は重要なことではありません。リッペルトがどの程度落ち着いていた(操縦席を意識的に外した)のか,位置関係と矛盾しないか、記憶力とその証言は信頼できるのか、のチェックポイントです。【サンテックスは、それまで会敵しておらず、増槽を棄てる理由はない。真後ろまたは後下方からの攻撃ならば、大型増加タンクが観察されたはず】
 
 

 どのような位置関係で「(胴を狙わず)翼に命中」したのか?  着弾箇所は、左右どちらの内翼/外翼/尾翼だったのか?
 翼の国籍識別標識を確認したのなら、上方から一直線に接近したのでしょう。その上で、ピンポイントで狙いを付けられるほど接近して射撃したことになります。それでもサンテックスは気付かなかったのでしょうか?【サンテックスは体が不自由なのと体躯が単座機乗務員規格外の大きさなのとで、後方や上方の直視確認はできなかったが、バックミラーでの監視は可能。迎撃機の出現を知っていながら(あるいは、それを待ち望んで)わざと撃たせた ⇒ 自殺説
 引き揚げられたサンテックス機破片には、被弾/火災の形跡が認められていません。回収破片の中にリッペルト氏が主張する着弾部分が含まれていれば、証言の信用性は低下せざるを得ないことになります。
 
 

 「翼を撃った」(= 操縦席は撃っていない)のに、火も噴かず、いきなり墜落していったのはなぜか?
 Bf-109G の火砲(13 mm 機関銃二丁、20 mm 機関砲一門)は機首に集中搭載されており、着弾散布界が狭いため、非力な火砲ながら命中時の破壊力は極めて大きいのです。一連射で翼が折れ飛んだ例も少なからずあり、命中弾を受けて墜落に至ったにもかかわらず、分解/出火せず、錐揉み状態にも陥らずに墜ちて行くのは、あまり普通のことではありません。(F-5B は双発機です。片方のエンジンが停止しても飛行を続けることは可能です)
 
 

 logbook はどのような経緯で失ったのか? 個人的なメモはあるのか?
 飛行記録手帳は肌身に付けて携行するので、撃墜されて落下傘降下しても失われることはありません。最も可能性があるのは、意識的な破棄です。何かの事故で logbook が失われたとしたら、それに代わるメモ類は存在するのでしょうか?(メモ類の有無は、証言の信頼性に関係します)
 
 

 撃墜スコアーは本当に28なのか? すべての撃墜機種・場所・日時を列挙できるか? 
 戦闘機乗りならば、28件程度の撃墜は克明に再現できるはず。【28(資料によっては29)は公認記録です。数そのものを問題にしているのではなく、記憶力や証言の正確さの指標として検討するための項目です。本当に虚言癖はないのか? かなりの老齢であるが、記憶の錯誤(1944.07.31 だけ記憶が明晰とは考え難い )はないのだろうか?】
 
 

 航空管区記録に 1944.07.31, 3./JGr200 の弾薬消費量記録はあるのか?
 ドイツ空軍は空中勤務者と地上勤務者の管轄を峻別していました。戦闘/撃墜報告書は前者に属するものとして航空団(リッペルトの場合は戦闘航空団)に、弾薬や燃料の消費量や整備報告書は航空管区司令部に、それぞれ上げられます。プロバンス地方航空団(空中勤務統括)系の公式記録に 1944.07.31 の戦闘報告が存在しないことは明らかになっています。基地の運営や整備・補給にかかわる航空管区司令部の公式記録には、弾薬や燃料の消費量が記載されているはずです。【探していますが、見つかりません】
 もし本当にリッペルトがサンテックスを撃墜しているのなら、1944.07.31、彼の乗機の弾薬消費量は、試射では説明できない値を示しているはずです。逆に、試射で説明がつくほどの弾薬消費量でしかなければ、リッペルトの証言は全くの嘘であることが証明されることになります。【因みに、戦闘機1機に対し、機体整備担当2名・火砲担当1名・エンジン整備担当0.5名が定員でした。】
 
 

リッペルト 破綻点

 レーダー基地からの警報は本当にあったのか?
 レーダー基地の配置とその性能が問題です
 Pradel 氏の記述に依れば:“11時ちょうどに、リヨンの西にあるレーダー基地 «Falter» が、単機(の存在)を報告し、エクサンプロヴァンスにある Jagdgruppe 200 の操縦士達に警報を発した”ために、リッペルトが迎撃に上がったと言うことになります。
 当時ドイツは世界最高水準のレーダーを開発していました。ヴュルツブルグ リーゼ Würzburg Riese と呼ばれる装置が射撃管制レーダー, フレヤ Freya が長距離用レーダーで、両者ともどんどん改良されていますから、1944年7月の時点でどのような性能を持っていたか【Würzburg Riese の最終的な性能は索敵距離 70km に達した】は、正確にはわかりませんが、リヨン周辺に配置されていたレーダーの遠距離有効距離が 100km 程度, 近距離用の戦闘機指揮レーダーが 30km 程度であったといわれています。【リヨン ― ツーロン間は約 300km です。】
 Chazelles-sur-Lyon に中核レーダーステーション(暗号名 Falter)があったことは事実ですが、Pradel 氏がいうようなことは起こらないだろうと思うのです。

 Nick Beale 氏は以下のように指摘しています。

Chazelles-sur-Lyon was certainly the location of «Stellung Falter» but why would this station, about 240 km. inland, be the one to detect an incoming flight from Corsica when there was an extensive radar and reporting network on the coast? How far could its three Freyas or its two Würzburg-Riesen see? Does this mean that Saint-Exupéry had penetrated well inland and was shot down by Rippert on his way home?

  つまり、「プロヴァンスには複数のレーダーステーションがあったのに、なぜそれらをすり抜けて、リヨンのレーダーだけがサンテックス機を捕らえたのか?」というわけです。

 まず第一に、リヨン方面のレーダーステーションは、方向毎に受け持ちがあり、南方を Chazelles sur Lyon (Nom de code "Falter"), 西方を Décines Charpieu (Nom de code "Leguan"), 北方を Montagny les Buxy (Nom de code "Buchfink"), 北東を Bourg en Bresse (Nom de code "Maulwurf")にあったレーダーサイトが、それぞれ受け持っていました。そして、Falter からの情報で、それに連携した指揮所が Bron(リヨン東郊外), Ambérieu(リヨン東 約50km), Valence(リヨン南100km)にある飛行場の迎撃戦闘機部隊に警報を出して、誘導と戦闘指揮を行いました。
 グルノーブルはともかく、アヌシーは Falter の受け持ちではなかったろうと思われます。そして、250 - 300 km 離れたツーロンやドラギニャンまでは、とても追跡することはできません。それに、Falter がプロヴァンス地方の戦闘機部隊に直接指令を送ることはあり得ません。

 第二に、地中海沿岸にはレーダー網が張り巡らされていました。プロヴァンス地方と関係しそうなレーダーサイトは、ざっと拾っただけでも:Toulon(Code Name Truthahn) , Tournon(Tapir) , St. Raphael(Rüsselkâfer), Orange(Ochse), Salon de Provence(Salamander), La Motte-Chalacon(Mungo), Aubenas (Alligator), Millau(Murâne), La Ciotat(Mâhre), Montpellier (Maultier), Leucate(Leuchtkâfer) と、いっぱいあります。これらのうち、サンテックスの航路に受け持ち区域を持つものがどれほどなのかは判りませんが、全ての網目をくぐり抜けて往復したという主張は、非現実的といわざるを得ません。

 迎撃スクランブルは本当にあったのか? 出撃記録は?
 既に述べたように、1./JGr200 と 3./JGr200 は、Avignon-Pujaut から進出してきた 2./JGr200 と交替して、 Aix-en-Provence を引き払い、それぞれ Orange-Caritat と Dijon に後退しました【正確な移動日については確定できていません】。 リッペルトが所属する第3中隊 (3./JGr200) も、7月31日はディジョンへの移動またはその準備で忙しかったはず。アヌシー上空を南下する偵察機(と思われる)に対して、Les Milles から迎撃に上がるものかどうか。もし出撃命令が出たのなら、当然その公式記録(亡失の形跡はない)が残っているはず。記録がなければ、迎撃出撃はなかったと判断するべきでしょう。【アヌシー上空のサンテックス機がドイツのレーダーに捕捉されたという話は以前からあり、新説ではありません。】
  Nick Beale 氏は以下のように指摘しています。
What's more, wouldn't an order to scramble have come from the Jafü (fighter controller)or Stab/Luftnachrichten Regiment 51 (in charge of the radar and signals posts) both of whose HQs were at La Nerthe with a direct landline to JGr. 200 at Aix-les-Milles?

  つまり、迎撃戦闘隊に対する指揮管轄が違うのではないかというのです。

 出撃記録は ない
 1944年、第3航空艦隊(フランス・ベルギー・オランダに駐留するドイツ空軍を統括)第2航空師団 19944.07.31 の出撃記録は:

Here's the promised text of ULTRA XL 4317:
 XL 4317
 Fliegerdivision 2 total effort on 31st was 12 sorties including two Ju 88 security ASV [FuG 200] recce, three Ju 88 and one Ju 188 convoy recce, two Arado A/S patrol. Four Arado security recce. No losses.
 Details:
One Ju 88 from 21.24 to 01.36 hours [GMT] Minorca, due east to Sardinia offshore to northwest tip.
One Ju 88 from 21.50 to 00.42 hours Marseilles - 4212/0615 east - off northwest Corsican coast - 4252/0615 east - Marseille.
One Ju 88 from 22.53 to 00.37 hours broken off at Spanish frontier at 23.55 hours.
One Ju 88 from 23.02 to 23.47 hours (on 30th) broken off in 4252/0415 east at 23.10 hours.
One Ju 188 up 10.21 hours convoy route African coast.
Two Arado 12.00 to 14.50 hours search recce to spanish frontier.
Two Arado up 16.46, down 17.15 hours, security recce Gulf of Lions to frontier broken off at 17.00 hours in 4252/0515 east.
Two Arado up 17.34, down 19.37 hours, security recce Gulf of Lions to frontier carried out.
One Ju 88 up 21.40 hours ASV area west and northwest of Corsica.
Secondly on 30th an experimental flight for fighters was carried out to North African coast (comment no details but XL 4202 para. C may be relevant).
 
011802Z/8/44
12 O'clock Highより】

 すなわち、リッペルトの主張する出撃(時間帯・機種・迎撃)は記録されておりません。

 僚機や陸上からの目撃証言がひとつもないのはなぜか?
 僚機の目撃がないことはあり得ない(後述)ことです。
 晴れ渡った月曜日の正午近く、陸地または海岸線上空 2000 メートルを(それも、人口密集都市の直上またそれをかすめる形で)ゆっくり飛んだのであれば、目撃者は必ずいたと思われます。F-5B は特異な外観(この時期、この空域で双胴機は P-38 型だけ。しかも、単座機とは思われないほど大型です)は注目を集め、憂慮/歓喜の視線を浴びせられていたはず。何しろ、ナショナリスト揃いのフランス人が仇敵ドイツの占領下に置かれ、それからの開放も間近と期待されている時期だったのですから。味方機が撃墜される事件の目撃談がない(リッペルト説以前には目撃談がありません)のは、極めて考え難い事態と言わざるを得ません。信頼に足る目撃談がないのであれば、そんな“空中戦”はなかったと断ぜざるを得ません。
 「目撃者」はきっと出てくる。でも . . .
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L'Express 1994年5月19日号
 上の画像は、週刊誌 L'Express 1994年5月19日号(サンテックス ミニ特集。内容は、流れ着いて埋葬された屍体の検案書等)に掲載された「目撃談」の墜落推定場所(カルケランヌ沖)を図解したものです。これは、その後明らかになった墜落推定海域とも、リッペルト説の撃墜場所とも異なります。ツーロンの東に当たりますし、図の等深線からも判るとおり、険しい海溝が陸に迫っており、この墜落推定海域から西へ向かって(残骸引き揚げ海域であるリュウ島まで)、潮に流されて移動することはあり得ないからです。この「目撃」も、実態のない「嘘」(もしくは思い込みによる「錯誤」)だったのです。
 リッペルト説がこれほど話題になると、それにあった「目撃談」は必ず出現するだろうと思われます。付和雷同型の注目願望者が現れるのは、「社会現象」なのです。von Gartzen 氏が著書の発売を半年間ずらせているのは、その間に自説を補強する「目撃者」が現れるのを狙ってのことではないでしょうか。

 この後「目撃談」が現れたとしても、とても信用するわけにはゆきません。まず第一に、今までにも目撃者調査は一度ならず行われています。今更、新たな目撃者の出現は期待できません。そして、社会的に注目される「撃墜談」・「発見」・「新聞報道」・「著書の出版」等は、何度もありました。なぜ、そのときに名乗りでなかったのでしょう? 第二に、「目撃者」は結構な「高齢」になっている(すなわち、生き残っている人は少ない)はずです。複数の人の、一致した証言は望めないでしょう。「撃墜」が事実であるならば、多数の人による「目撃」が期待される事件なのですから、このふたつの要件に抵触するような「証言」には、信頼性が殆どありません。

 撃墜報告/墜落目撃報告はない
 ドイツ軍の正式記録や書籍類・その他の報告類にも、連合軍側の記録・報告にも、当日の P38 型機の撃墜/墜落は確認できません。
  ペムラーにかかってきた電話のやりとりです。(Georg Pemler; Rout Nationale Nr.7, 1985, p.25)
 ― ” Geht doch mal der Sache nach! Ihr kommt doch öfter zu den Korps und Divisionen. Vielleicht hat jemend einen Abschuß gemeldet oder einen Absturz beobachtet.“
 ― ” Herr Oberstleutnant, unsere Staffel können wir ausklammern. Hätte einer von uns eine P 38 Lightning abgeschossen, wüßte das die ganze Staffel.“
 ― ” Gut, ich höre von Ihnen.“

 ― 「その件についてもう一度調査してくれ。兵団や師団に頻繁に連絡を入れて構わない。ひょっとしたら、誰かが撃墜したか、さもなくば、墜落するのを目撃しているかも知れない。」
 ― 「中佐殿、我が中隊は除外できると思います。誰かが P38 ライトニングを撃墜しようものなら、全中隊が知るところとなるはずです。」
 ― 「宜しい。君の言うことを信じよう。」

 P38 型機(サンテックス機)撃墜/墜落の有無を調査するよう命令されたペムラーは、自分が所属する部隊(2./NAG 13 )にそれはあり得ないと即答します。そしてもちろん、それ以外の部隊への問い合わせをし、その答え(該当なし)を、後刻報告します。
 リッペルトは、「撃墜」を報告してはいなかったし、部隊の仲間の間にそのような噂もありはしなかったのです。
 64年も経ってから「実は、俺が撃墜したのだ」という『告白』は、信ずるに足るものでしょうか?

リッペルト 補強/支持点

 
 


サンテックス未帰還をリッペルトは知っていた

 別項「日本語サイトだけの珍情報」の項に述べたような事情で、ドイツ軍現地部隊は、即日、サンテックス行方不明の事実を知っていました。当然、リッペルトはそのことを知ったはずです。ただし、「数日後」は遅すぎると思われます。

 私はチェコ語を読解できないので翻訳サイトの助けを借りての判読ですが、Jan Bobek 氏が iHNed.cz 社の速報・特集記事(ハイヒェレ説等も紹介・比較)中で、:

"Rippert worried about his link to death of Saint-Exupéry soon after the war. About 5 years after the war he came to conclusion that he had nothing to do with it. He was still under this impression 10 years ago." [文字化けが酷いのでチェコ語原文は掲載しません。Beale 氏の要点英訳です。]  

 と述べています。つまり、リッペルトは戦争直後から「サンテックス殺しにかかわったのではないかと気に病んでいたが、戦後5年ほどたった頃、そんなことはないとの結論に達し、10年ほど前まではそのつもりでいた」というのです。

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