Message aux jeunes Américains

若きアメリカ人達への訴え

hair line

 サンテックスは、アメリカ参戦を促すために合衆国へ渡りました。そして、軍や政府高官へ面会する機会があれば、そのことを要請しました。
 講演もしましたし、新聞や雑誌に投稿する機会を得られれば、寄稿してフランスやヨーロッパの窮状を訴えています。
 The Sentier Scholastic という出版物の第40巻 p.17 - 18 に、(例によって Lewis Galantière の翻訳に依る)英訳文:Letter to young Americans が掲載されました。
 サンテックスの手になる原稿(フランス語)は失われたものと考えられていましたが、コンスエロが探し出し、1967年に Editions Dynamo から下記の出版物として刊行されたのです。


Message aux jeunes Américains
若きアメリカ人達への訴え

logo

ジャケット。

 この出版物は、二つ折りの用紙3枚を、それとは紙質の異なるフリーエンドペーパー代わりの二つ折り用紙2枚でサンドイッチにし、そのエンドペーパーを更にジャケットで折り込む装丁になっています(綴じてありません)。上は、その最外装のジャケットです。


logo

下の表紙と向き合う位置に置かれた似顔絵。(絵師:A. Mambour)

logo

表紙。


logo

本文(全部で5ページ)の第1ページ。

 Dorothy Thompson は、ナチスによってドイツから追放された。アメリカ初の女流ジャーナリスト(1939年には、合衆国で最も影響力のある女性二人のうちの一人にあげられた)。彼女の要請でこの原稿を書いた(書いたのは1941年12月との説がある)。


 「諸君は戦時にある・君たちは若い」とアメリカの若人に向けて、自由を護るために立ち上がり、義務を果たすために戦線へ赴けと繰り返しアジテーションを行っています。郵便機の操縦士であった頃のことを織り交ぜながら、人と人との絆について語るのです。
 本文の最後には1942年5月25日【カナダへ出発する数日前】の日付があります。これと前後して彼は、Le Petit Prince の執筆を開始しました。


logo

 出版部数は、用紙別に:hollande Van Gelder; 100 部, parchemin crèm; 10 部, japon blanc pailleté; 1 部。これはそのうちの No.49。


 パール・ハーバーの騙し討ちに激昂したアメリカ世論は、一気に参戦に突っ走る。怒りに燃え上がりはしたものの、準備不足が祟って緒戦はふるわなかった。とはいえ、西海岸の住民避難を検討するほど敗北続きだった太平洋でも、既に4月17日(アメリカ標準時)のドリトル爆撃隊による東京初空襲によって戦意は高揚しており、更にこの後、6月4日に行われたミッドウエー海戦での大勝利によって、太平洋の戦局も一挙に明るく開けた。
 サンテックスの講演や寄稿文によるアジテーションは見るべき効果をもたらさなかったが、時代は彼の思惑を超えて進行していた。情勢に取り残されて焦った彼は、軍務に復帰すべくあらゆる手を使った。翌年の春、持病と事故の後遺症に苛まれてまともな操縦もままならぬ老体をひっさげ、北アフリカへと旅立つことになる。

 【サンテックスの参戦は、彼の一方的な押しかけに過ぎなかった。時代も軍もフランスも、もはや彼を必要とはしておらず、彼の到着は軍と部隊上層部にとって、厄介なお荷物でしかない。とはいえ、彼が所属した部隊の構成員にとっては、部隊全体を明るくする手品師・講談師として大いに歓迎すべき存在であった。】

hair line

トップページに戻る
総目次に戻る

表紙を表示する(フレーム構造を取り入れる)


hair line