まずはじめに、Le Petit Prince が書かれた時代の印刷技術−とくに、挿絵の印刷−について、大まかなことを理解していただく必要があります。サンテックスは紙の上に水彩画やペン画を描きました。これが原画です。その当時は、現在のような写真製版の技術はありません。あっても技術的にはまだ未熟で、コストも極めて高価なものにつき、特殊な印刷物でなければ使われることはありませんでした。それでは一体どうやって印刷原版を作ったのでしょう?
印刷会社には専門の職人がいました。原画を模写して、必要な大きさの印刷原版を作るのです。使用する色の数だけ原版が必要です。それも、その色の部分だけの。美しい挿絵を仕上げるためには、腕のよい職人を雇っておく必要がありました。
ガリマール社も同じことをしました。(サンテックスの原図ではなく、レイナルヒチコック社の印刷物を原図として使ったということです。このことは、この項目ではあまり意味を持ちません)。模写職人が印刷原版用の色版原図を描きます。この種の職人は、原画に忠実に(しかし、必要に応じて縮小・拡大して)模写しなければなりません。どうしたことかガリマール社の模写職人は、信じられないくらい下手でした。ふたつを較べると、素人目にもはっきりと判るほど、違ったでき上がりになってしまったのです。背景の描き方が雑だったり、王子が全体に細面になっていたり、すべての挿絵に違いを感じとれるほどです。皆さんがお持ちの岩波書店版はガリマール社版の忠実なコピーですから、この、変わってしまった挿絵が使われています。たとえば、表紙を開いて最初に出てくる「王子旅立ち」の絵。渡り鳥の右から3番目上の列の鳥を見ていただくと、目がありません。レイナルヒチコック版では、この鳥にはチャンと目が描かれています。細かな、または、感覚的な印象は抜きにして、誰にでも判るディジタル的な相違点を3つほどお見せしましょう。
まず第1番は、けものを飲み込もうとしているウワバミの絵です。違いがよく判るように、頭の部分だけを示します。

歯の数に注目してください。下顎両側に5本づつ、上顎には4本の歯があります。さて、ガリマール版はというと、

下顎の歯が少ないのが判りますか?(岩波版も確かめてみてください)。ウワバミの黒目の位置も違いますね。他にもいろいろ違いがあります。薄くて判りにくいでしょうが、右下の赤い丸の中に数字の7またはカタカナのフに似た記号があることもこの際見ておいていただきましょう。これはレイナルヒチコック版にはありません。ガリマール版の、それも、複数ある原版の内のいくつかに特有の、傷または汚れと思われます。この写真はごく最近の版なのですが、幻の1945年版以来、実に連綿とこの汚れが受け継がれています。写真製版に切り替わったとき、この汚れも受け継がれてしまったのですね。翻訳本の中には、この汚れまで再現しているものがあります。(たとえば、イタリア語版は現在でもこの汚れ付きで印刷・発売されています。 岩波版にはありません。写真製版の過程で、汚れと認識して消し去られたのでしょう。)
ついでに最新のガリマール版をご覧いただきます。folio collection という小型の本です。

見比べてください。歯の数・ウワバミやケモノの黒目がレイナルヒチコック版と同じですね。他に、ウワバミの2巻目と3巻目に白く抜けているハイライトやケモノの尻尾の描き方等、すべてがレイナルヒチコック版のものです。
さて次は、「王子の肖像」です。ガウンの色の違いも見比べてください。
レイナルヒチコック版はこんな色です。

注目していただきたいのは胸元の飾りの形です。花びらのような襞がはっきりしていますね?
ガリマール版はというと:

襞がほとんどなくなっています。コートの色もまったく違います。(この色は比較的最近の色です。ガリマール初期の色はもっと濃い色をしています。別項ガウンの色を見て戴ければ実感できることでしょう。)
更にもうひとつ、「バオバブの芽を抜く王子」を見てください。全部の花が、6枚の花びらを持っています。

さて、ガリマール版はというと、ご覧の通り。模写が雑なのです。

このように、ほとんどあらゆる挿絵が、ふたつの系列では異なる部分を持っています。意識的にこうした可能性がないではありませんが、あまりにお粗末ですから、よんどころない事情で腕のよい模写職人を得られなかったのだろうと想像しています。
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もう30年以上も前に、この挿絵の問題に気づいた方がいらっしゃいました。岩波書店に手紙を出したところ、「当方の挿絵はガリマール社の挿絵を正確に再現したものなので、ニセモノなどというものではありえない」という趣旨の返事が来たとか。
岩波書店の言うことは事実そのものですし、著作権法上も「ガリマール社の挿絵を正確に再現」する以外のことはできないのですが、返事の内容から推して、2系列の挿絵があることには気づいていなかったようです。
「星の王子さま」の中で挿絵はとても重要な役割を果たしていますから、その品格の有無は作品を評価する上で重要な意味を持ちます。「岩波書店の『星の王子さま』の挿絵には気品がない」と喝破した浅井さんが、肩の凝らない話題提供として11年前に書いた短編随筆“星の王子さまと微積分 ”。 ガリマール版の挿絵がニセモノであることを指摘した、おそらく世界で初めての文書です。「星の王子さま」読解史の観点からも貴重な資料。
おもえば、入り陽を眺めた回数がガリマール版では43回になっていることを初めて指摘したのも日本人でした。日本の「星の王子さま」愛読者の質の高さを示すエピソードと誇ってよいのではないでしょうか。
【浅井さんは数学の専門家です。他にもトップページからは、含蓄の深いエッセイや、現在大学で実際に講義されている数学の内容を知ることができるシラバス等が。】(2000.3.14 追加)
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フランスのガリマール社とアメリカのハーコートブレイス社(レイナルヒチコック社の出版権を受け継いで、The Little Prince および Le Petit Prince を発行しています)の挿絵の変遷は複雑です。
まず第一にガリマール社は、上記のように私が“ガリマール系”と呼んでいる雑な模写を使っていました。王子の肖像に関しては、はじめは濃い「青-紅」系だったのですが、後期になって“薄い”「青-紅」系に変わりました。複製権の関係上、各国の翻訳本はすべてガリマール社版を忠実に再現しなければなりませんから、それぞれの編集時点におけるガリマール版の色の違いを反映したものになっています。岩波書店版も例外ではありません。
ハーコートブレイス版がレイナルヒチコック版をそのまま再現して、「緑-朱」系だったのは当然なのですが、どうしたことかある時点からガリマール系に変わってしまいました。すなわち、「青-紅」系になったのです。同時に、挿絵そのものも上記の雑な模写に変わってしまいました。
実は、Le Petit Prince の出版権に関しては、サンテックスの不注意(というよりは非常識)から、レイナルヒチコック社とガリマール社との二重契約に近い形となり、裁判による裁定にまでもつれ込みました。私はまだその詳しい内容を調査しておりませんが、おそらく、比較的最近になってハーコートブレイス社の暫定的な出版権が切れ、ガリマール社の複製権だけが正当なものとして残ったのだろうと推察されます。挿絵に関しては、ガリマール版は言わばニセモノなのですが、著作権法の定めるところにより、「忠実な複製」が求められますから、ハーコートブレイス社としては、「ホンモノ」を捨てて「ニセモノ」に合せざるを得ない仕義となるのです。【アメリカやイギリス等の旧連合国では、サンテックスの著作権自体はもう消失しています。(保護期間は延長されてしまいました)。フランスおよび日本での著作権については、別項「星の王子さまの著作権はいつ切れるの?」を,出版権・複製権・商品化権等に関しては、別項「著作権の話」をご覧下さい。】
今年(1999年)になって、ガリマール社が相次いで“1943年版に忠実な”新しい版(下の絵をご覧下さい)を出版しているのも、この著作権の問題が絡んでいるものと推察されます。(別項 「王子さまは何回入り陽を見たでしょう?」 の追記をご覧下さい。)
来年(2000年)にサンテックス生誕100周年を記念して出版されるであろう岩波特別版には、この「ホンモノ」の挿絵が搭載されるものと期待されます。
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ガウンの色は緑−朱系になった。顔は丸顔に、胸元の飾りもチャンと襞があり、細部にわたって原画通りになった。他の挿絵もすべてレイナル・ヒチコック系に。 表紙のレイアウトは旧来通り。すなわち、レイナルヒチコック版に較べて星がひとつ少なく、かつ、位置が異なるもの(レイナル・ヒチコック版で Prince の“i”の点になっている星)がある。また、B-612 の詳細を検討してみると、表紙の絵は、レイナル・ヒチコック版ではなく、ハーコート・ブレイス版を原画として使ったことが明白。 この新版の出版は1999年5月。ペーパーバック。判形は旧来と同じ。刷番号は旧来のものを継承して 84098 となっている。さすがに ISBN は変更され、2-07-075589-4 となった。(2000.1.19 追加) |
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著作権に関わる問題について: この項に掲載した挿絵については、ガリマール社およびハーコートブレイス社に対し、掲載許諾を得る為の努力はしておりません。上記の事実は、市販された Le Petit Prince の歴史的な変遷を知る上で極めて重要かつ興味ある点であり、これを理解して貰うためには必要最小限の引用であると考えられますので、著作権法が許す範囲内にとどまるものであり、事前に許可を得る必要はないものと判断しました。国際版のホームページを公開するに際しては、両社に対し説明と通告をする予定です。
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