あれから15年
阪神・淡路大震災

 15年前の今日、1995年1月17日(火曜日)、阪神・淡路大震災が起きました。神戸市から 90 km を隔てた場所に住んでいて被害を受けることはありませんでしたが、早朝5時47分、寒さ故にまだベッドから抜け出せないでいた私は、飛び起きました。P - S 間隔は無いに等しく、ゆさゆさと長く続く大きな揺れは、「南海大地震か?」という第一印象をもたらすものだったのです。実際の震源断層は、予想もされなかった淡路 - 六甲山脈南を走りました。淡路島北部や本州兵庫県南部に残された被害の凄まじさは、ここに述べるまでもないでしょう。

 数日経って尚、新たにあがる火の手には、放火の疑いもちらつきました。真偽のほどは不明ですが、騒ぎに紛れて火事場泥棒や強姦事件が起きているという、眉を顰めさせる噂も流れました。見物目的や、あろう事か窃盗目的で、入域しようとした不埒者が実在したことは、残念ながら事実でした。後には、ボランティアを名乗る金銭詐欺行為もあったのです。高・中層ビル群を備えた現代社会の先進大都会が直下型烈震に襲われたのは初めてのことでしたから、さまざまな反省・教訓を残しました。

 低空を飛び回る報道機関のヘリコプターが発する爆音のために、会話もままならない状態。助けを求める弱々しい声は、聞き取ることが絶対に不可能な状態であったと伝えられます。情報網は寸断され、域内の人々はもちろん、域外でさえ何が起きているかを知るのに時間が掛かりました。行政による救援は迅速・充分とは言えない状態で、いち早く状況に対応して組織的な救援活動に乗り出したのは、神戸地区に本拠を置く広域暴力団と、黄色のヘルメットを被った某新興宗教団体であったといいます。避けられないこととはいいながら、トリアージュという無情な手法原則も研究され、後に定着しました。

 地獄さながらの惨状を生き抜いた人々の生活が悲惨なものであったのは言うに及びませんが、いち早い復興を約束する光も射していました。地域の人々の結束は強く、この種の事態にありがちな商店の略奪や大きな争いごとは起きず、他人を踏みつけにして利己的な主張・行動に走ることは少なかったと聞いております。

【伊勢湾台風を経験し、救援物資をリュックサックに詰め込んでボートを乗り継ぎ 乗り継ぎ、港区や木曽三川下流の、濁水中に孤立した避難所を訪れた(目を背けたいことも知ってしまいました)ことがある私には、今回の震災でも(生き埋め救助の人手不足や消火用水不足はさておくとして)まず困るのが薬品・飲み水・トイレの欠乏、それに続いて、食糧供給と寝具・防寒衣・棺桶・遺体焼却場の手当て方策が焦眉の急であると判っていました。】

 そんな私にとって、最も象徴的な映像がテレビニュースとして流されました。さまざまな困難を乗り越えて公衆浴場が開かれ始めたのです。営業(初めは無料開放だったように記憶します。入浴時間制限は各人30分以内だったとか)を再開したお風呂屋さんの前に、長い行列ができました。薄汚れ、血が滲む包帯姿の人々が、寒風の中でじっと順番を待っているのです。視ていて涙がこぼれました。
 この映像は世界中に配信され、驚きと感動をもって迎えられました。各所で黒煙を上げる市街地の遠望や倒れた高架高速道路の映像。それに続くこの順番待ちの光景は、(決して高いとは言えない)日本人に対する信頼 * を増し、標榜する「平和憲法」が、単なるお題目とは限らないと見直される機会を作ったのです。
 驚いたこともありました。私が子供の頃にラジオ放送で聞いた「尋ね人の時間」が再現されたのです。考えてみれば、6千人を超える死者と、あの混乱状態では、当然のことでした。戦場にも等しい悲惨な状況であることを、改めて認識させられたものです。

 当時、大学に勤務していた私は、入学試験の試験監督にも狩り出されました。志願者カードの束を手に、出欠をチェックして回ったとき、各自の机上に置かれた受験票に、複数の被災地名を目にしました。被災地では、まだ避難状態が続いています。その日1日を生きて行くのさえ大変だったであろうこの受験生達。弱り目に祟り目といいますが、「平等の名分の下の不平等」は容赦なくその上に降りかかっていることを痛感しました。何をすることもできません。監督官として不謹慎であることは百も承知で、その生徒達の望みが叶えられることを、ひそかに願わずにはいられない気分にさせられたものです。

 あれからもう15年。日本の国民性も変化しました。とりわけ、弱者を食い物にすることを厭わない犯罪の増加は目に余り、その犯罪者に対する強い憎しみを禁じ得ません。ネット上で、他人を貶める書き込みを繰り返す人が少なくはないのも、心配の種です。
 そして、地震をはじめとする災害は、全地球的に活動期に突入しています。日本でも、東海・東南海・南海の巨大地震は不可避で、その到来はカウントダウンに近い状況を呈しています。その他の地域も、活断層と無縁ではあり得ないのです。悲惨な状況は、いつ降りかかって来てもおかしくありません。そうなったとき、15年前と同じように、身を寄せ合って助け合う社会を維持できるのか否か、自信を持って答えることができるのでしょうか。

 Le Petit Prince の愛読者であるあなた、あなた達とは助け合って生きて行けると信じています。
 配られたたったひとつのお握りを、必要度が高い人に譲るか、さもなくば、平等に分け合うことが、あなたならきっとできますよね

(2010.01.17 掲載)   

* 「略奪」と「暴動」の意味

 他国の人々を貶めようという意図はまったくありません。ただ、同じ轍をたどって転覆を繰り返さないためには、冷徹な反省と検討は必要です。現実に起こってしまった事実に関しては、それに基づく批評・批判を免れることはできないものと、諦めて戴くしかないでしょう。

 2010年1月12日(現地時間)、ハイチ共和国でマグニチュード 7.0 の大地震が起きてしまいました。大統領府の壊滅をはじめ。政府機能が崩壊するという、前代未聞の被害を引き起こしました。被害の悲惨さはいうまでもありません。いまだ確定できていない人数の死者を生じ、略奪・暴動という治安喪失の状態にあります。
 一番の問題は、この「略奪」や「暴動」という異常事態が、全世界からの支援の足を引っ張ってしまうということです。

 まず第一に、暴動が起きている地域に物資を投入することはあり得ません、何はともあれ事態の沈静化を図らねばなりませんから、支援物資は留め置かれ、鎮圧部隊が差し向けられます。救出・医療等の救援・救助も慎重にならざるを得ません。生存状態での救出に極めて重要な時間が、無駄に使われてしまうのです。

 今回は、元々政府が権能を掌握しておらず、それを代行していた PKO が壊滅状態になったのですから、無政府状態を呈するのは避けられません【日本でも、一極集中の東京が壊滅すれば、同じ状態に陥ります(関東大震災当時の東京の地位は、現在のそれに較べたら、実に可愛いものです)。決してよそ事ではありません】。

 第二に、略奪・暴動に参加している人々はとても元気です。「食料・水・衣料、何でも欲しい。すべてが不足している」と語る少年達が、実にこざっぱりとした衣服を身に着けており、摺り傷すらも認められません。家屋倒壊等の被害者とは思われないのです。つまり、これを千載一遇の好機として略奪に走り、救援物資を取り込もうとしている、身勝手な人々が存在するのではないかと邪推するに足る映像が配信されています。もちろん、悲惨な被害状況も放映されておりますが、救援物資が本当にそれを必要としている人々に渡らず、必要度の低い邪悪な人々に横取りされてしまうのではないかという心配が拭えません。略奪されたものと疑われる商品や(比較的最近も、某大国の大地震の際に起きたことですが)援助物資とおぼしき品々が高値で闇マーケットに並ぶのをみては、募金・援助活動が出鼻を挫かれてしまいます。略奪・暴動の発生は、「そのような民族に救援の手をさしのべる必要があるのか?」という考えを呼び起こすことでしょう。被災者は、二重・三重に被害を受けることになります。

 どのような角度からみても、略奪・暴動が益をもたらすことはあり得ません。そうした事態は救助・救援を遅らせ、復興を妨げる要因にしかならないのです。悲劇は、ますます拡大してしまいます。
 いま、日本の大都会で甚大な被害が出たときに、同様の恥ずべき轍を踏むことになるのではないかという大きなおそれを、否定し去ることはできないのではないでしょうか?

(2010.01.20 追加)

hair line