潮 溜 り

サンテックスと
そのゆかりある人々が生きた時代

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シルヴィア
ニューヨークのメセナ

 


シルビア・ハミルトン
 

キツネに潜むシルビアの影 ― 1
 “My heart begins to dance when I know you are coming.”「あなたが来ると判ると胸がときめきだすの。」 シルビア・ハミルトンがサンテックスにいった言葉である。

 はじめはシルビアの居間を書斎代わりに Le Petit Prince の執筆に没頭したサンテックスだったが、執筆時期の後半は、コンスエロともどもロングアイランドに借りた自宅に引き移る。そうなる前も、それ以後も、他人の気持ちや迷惑を慮ることを全くしない身勝手なサンテックスは、愛人であるシルビアの部屋を訪れていた。多くは深夜に、時間を定めず予告もなく、いきなりやって来るのである。【いつも中華料理店で待ち合わせたという説もある】 外出も就寝もならず、いつ来るとも知れない彼の訪れを哀れにも待ち続けるシルビアにとって、それでもサンテックスはこの世のすべてであった。「来た! 足音が聞こえる」。入り口のドアまで飛んで行くシルビア。フランス語は判らない。サンテックスは英語を喋れない。言葉はなくとも意志だけは通じた。そんなシルビアの気持ちを、サンテックスはキツネの口を借りて王子に伝える。これは、シルビアに対するメッセージだろう。「君の気持ち、ボクはチャンと判っていたんだよ」と。
 シルビアは哀願したはずだ。「やって来る時間帯だけでも決めてもらえたら、とても嬉しいんだけど.....」。その願いは無視され続けた。しかし、恥知らずにもサンテックスはキツネに言わせる。「いつも同じ時刻にやってくるほうがいいんだ。......... だけど、もし、あんたが、いつでもかまわずやってくるんだと、いつ、あんたを待つ気もちになっていいのか、てんでわかりっこないからなあ・・・・・きまりがいるんだよ」。(内藤 濯 訳)
 やって来たときと同じように、相手の気持ちにはお構いなくサンテックスは、無慈悲にシルビアの部屋を去って行く。ほとんどの場合、コンスエロの(大抵は外出中で留守の)部屋がその行き先だったのだけれど、そのことを知らないシルビアは随分悩んでいた。「他にも女がいるんだわ」。

 突如としてシルビアは捨てられる。詳しい説明は何もせず、一方的に身勝手な計画を進める男。朝7時(一説には雨の夜)、例によって何の前触れもなくドアを叩いたサンテックスは、形見として、使い古したカメラと Le Petit Prince の草稿をシルビアに押しつけて、これから前線に出発すると告げるのだ。部屋に入りもせずに立ち去って行くサンテックス。茫然と立ちつくすシルビア。「死ぬこと以外、私に何ができるというの*。」

* 運命はシルビアに微笑んだ。翌日シルビアはラインハルトと出会う。身も世もなげに憔悴し切ったシルビアの風情が彼の注意を引き、彼女を放ってはおけなくしたのだ。後に二人は結婚することになる。
 キツネの言葉の端はしに色濃く漂うシルビアの影。サンテックスはこの作品を通じて、コンスエロだけにではなく、シルビア・ハミルトンに対しても、密かなメッセージを贈っていたことになる。しかしそれは、もはや熱愛と呼ぶべき情感を感じ取ることができるものではなくなっていた。

キツネに潜むシルビアの影 ― 2
 “S'il te plaît....apprivoise-moi!” 「なんなら....おれと仲よくしておくれよ。」(内藤 濯訳) キツネからのこの申し出にも、シルビアの影を見ないわけには行かない。
 出会いに際しては、シルビアの方からサンテックスに言い寄った*。彼は一も二もなく彼女を受け容れる。一方にコンスエロとの生活がありながら、大胆な愛人関係が築かれた(この時期、複数の愛人がいた)。B夫人ばかりに目がいっていたコンスエロは、二人の関係に気づかなかったようだ。既に述べたように、“apprivoiser”には、男女間の性的関係を表すニュアンスが極めて強い。なぜサンテックスは、場面に不似合いなこの言葉を選んだのか。キツネがシルビアならば、疑問は氷解する。

*  このときシルビアは「とても素敵、と伝えてください」(新潮社,サン=テグジュペリの生涯,檜垣 嗣子 訳)と通訳を頼んだことになっている。日本語訳しか読まない人には、このときの気迫が判らないだろう。シルビアは紹介者のギャランティエールに“Tell him I love him.”と二度も要求し、正直に通訳されないと判ると、サンテックスに「電話番号をお教えしましょうか?」と直接迫ったのだ。普段、「英語なんて全く判らない」と言っていたサンテックスがこのときは「ウィ、ウィ」と即答している(Stacy Schiff, Saint-Exupéry A Biography. Da Capo Press, New York, 1996, p.372)。1942年のニューヨーク。独身女性が、出会ったばかりの男に自分の部屋の電話番号を告げるということがどんなことを意味するか。彼女が、ジャーナリストの端くれとしてそれなりの社会的な立場にあったことを考えると、なりふり構わぬ捨て身のアタックぶりは尋常ではない。

 出会ったその日に“apprivoiser”を口にしたのは、1942年3月のことだった。サンテックスが彼女の部屋を訪れて別れを告げたのは1943年4月。1年あまりの付き合いでしかなかった。Le Petit Prince 執筆中も前線への思いを募らせていたサンテックス。戦線復帰をあせるものの一向に叶えられない焦燥感と、長い付き合いにはなり得ない別れの予感が王子にいわせる。「ボク、時間がないんだ。」

キツネに潜むシルビアの影 ― 3
 「ことばっていうやつが、勘ちがいのもとだからだよ。」(内藤 濯訳)
 シルビアとサンテックスは、まともに会話を交したことはなかった。シルビアは英語しか、そして、サンテックスはフランス語しか喋れなかったのだ。それでも、二人の間で意思は充分に通じた。少なくともサンテックスにはそのように見えた。言葉が理解できなくとも互いの意思が通じ合えることに、サンテックスは<未完>
 シルビアは随分苦労した。もどかしさに気も狂わんばかりのときもあった。

B夫人の代理
 些細な行き違いから、サンテックスはB夫人と不仲になっていた。B夫人がサンテックスに行っていたのと全く同じことを、ニューヨークで引き受けたのがシルビア・ハミルトンだった。彼女は<未完>

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