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2000年は、「星の王子さま」にとって最悪の厄年になるかも知れません。作者生誕100周年記念として、普段なら印刷されることがないような本までが出版されることになったからです。この一年、「星の王子さま」が実に軽々しく扱われる傾向が顕著になりました。「どうせ子供の読み物」という考え方が根底に横たわっていることは疑う余地がありません。しかし Le Petit Prince は、断じて「子供の読み物」ではありません。更に百年後、文学史上にサンテグジュペリが名を残していたとするならば、それは Le Petit Prince 一作のなせる技です。それほどまでに深みのある「大人の読み物」なのです。「どうせ子供の読み物」扱いはして欲しくありません。
昔は、寄稿したり本を上梓したりすることは、いろいろな意味で大変なことでした。神経をすり減らし、推敲に推敲を重ねて内容に誤りなきを期すのが当然とされました。それだけに、活字にはそれなりの権威があったのです。最近の活字は実に軽々しいものになり果てました。間違いどころか、嘘まで平気で書く時代になったのです。自衛手段としては、信用できる本と信用できない本を峻別する必要があります。害毒になりかねない本は、排除することも必要です。
いささか古びた流行語を拝借して『買ってはいけない!』という項目名にすれば、もっと判りやすかったかも知れません。しかし、それではドギツ過ぎましょう。私は、評論はしますが、皆さんに指図するつもりは毛頭ありません。それに、「バオバブにはバオバブの言い分がある」のですから、「このバオバブには気をつけるんだゾー」と叫ぶのに止めたいと思います。
蛇足ながら、バオバブは邪悪な樹ではありません。果実と樹皮は住民にとって大変実用価値のあるものですし、大木にできた空洞は、場合によっては住居すら提供しています。それでも、小さすぎる B-612 にとっては、星を破滅させる危険な存在です。「価値」は、判断主体と価値基準に依拠するものなのです。

「星の王子さま最後の飛行」,ジャン=ピエール・ド・ヴィレル 著,河野 万里子 訳,竹書房,123p.,2003年12月16日,¥1200.- +税,ISBN 4-8124-1446-6
これくらい読者をコケにした本も珍しいでしょう。
原著の出版は承知していました。しかし同時に、その内容のあらましも知りましたので、目を通す価値のない書として黙殺していたのです。
最近になって、訪れた書店の書棚にこの和訳を偶然見つけました。手にとって表紙の帯を読んだとたん、「これは放っては置けない」と感じました。
ゴチャゴチャと盛りだくさんの幅広帯ですが、その中央下端に
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世界7カ国で出版決定! 感動のノンフィクション |
と謳っているではありませんか。「ノンフィクション」!。 顔色が変わらざるを得ませんでした。すでに「虚構」として議論の舞台から片づけられたハイヒェレ説を下敷きにした作り話を、「ノンフィクション」として野放しにするわけには行きません。
そもそも原著が「ノンフィクション」と謳っているのか、調べてみるために購入しようとしました。しかし、八方手を尽くしても、姿が見えないのです。例によって、インタネットを駆け巡って探しましたが、扱っている書店はありません。ISBN が判明しているのに手に入らないというのはきわめて異例のことです(「帰ってきた星の王子さま」がそうでした)。自費出版に近い、きわめてマイナーな出版物で、まともな書籍販売ルートには乗っていないことを表しています。
著者本人が、「引き受けてくれる出版社がなかなか見つからず、2000年になってやっと出版にこぎつけた」と述べているとおり、原稿を読んだら、どの編集者も首を横に振ったことでしょう。前記のように、すでに知られている事実に合わないばかりか、内容もばかばかしいファンタジーなのですから。
原著は英語とフランス語の合冊のようですが、ほかの言語にも翻訳されているようです。このような本が翻訳されて売られるということは、「星の王子さま」ファンを馬鹿にしているとしか他に言い表しようがありません。
原著がどうあれ、日本語版の帯に「ノンフィクション」を謳ったことについては竹書房に責任があります。「星の王子さまのかわいらしい声が聞こえた」という内容を読めば、これを「ノンフィクション」とするのは正気の沙汰ではありません。まして、サンテックスの乗機残骸が発見された今、このような戦闘があったこと自体、完全な嘘であることが明白になっているのですから。
内容は、まったくのでたらめです。一読の価値すらありません。このような作品が大手を振って書店の棚に並ぶのは、本当に悲しいことです。一日も早く消え去ってほしいと願っています。
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Jean-Pierre Andreoli de Villers, 1940- Le dernier vol du Petit Prince/The last flight of the Little Prince. Ottawa : Eitions du Vermillon, 2000. Texte en français et en anglais. ISBN 1-895873-83-5 |
(2005.1.23 追加)
英語/フランス語版、手に入れました。業界用語で「腰巻き」と呼ばれる帯はありません。したがって、日本語版のように表紙で「ノンフィクション!」とわめき散らしているわけではないとはいえ、物語の内容は同じです。(当然のことですが、「日本の読者のみなさんへ」という長い後書きはありません。この後書きは、恥知らずにも、この作品をノンフィクションの体裁にするために追い打ちをかけるものです。悪辣な手法で読者を欺こうとする竹書房の商法は非難されてしかるべきでしょう。)
偶数ページに英語、奇数ページにフランス語を配していますが、ページ毎の対訳というわけではありません。日本語版とはかなり趣が違います。一番の理由は、挿絵の違いでしょう。原書挿絵のできは悪くはないので、日本語版がなぜこの挿絵を使わなかったのか、不思議です。画家に支払う印税を惜しんだのでしょう。あるいは、画家から再使用を拒絶されたのかもしれません。原書が出版された後で、その内容が詐欺にも等しいでたらめなものであることを忠告された可能性は小さなものではないからです。もしこの画家がサンテックスや星の王子さまを愛する人ならば、これ以上自分の作品を冒涜して欲しくないと願っても不思議はありません。普通ならば挿絵の雰囲気をここでお見せするところですが、鉄面皮な作品の片棒を担ぐのは御免蒙りたいので、紹介しません。せっかくの作品をフイにしてしまった画家には、同情しています。
「星の王子さまの幸福論」,渡邊 健一 著,扶桑社,78p.,2000年9月1日,¥1300.- +税,ISBN 4-594-02968-x
帯にはこう謳っています。「幸せは手の届くところにあるのです。」
幸せというものは、そんなにお手軽なものではありません。この本は幸せを手に入れるためのハウツーもの。それに「星の王子さま」が引っ張り出されているわけです。のっけから顔を曇らせて表紙を開かざるを得ません。その心配は現実のものとなります。
まず第一にこの著者は、自分の主張を押し通すためには、原文の改作も辞さないようです。著者はこう言います。
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着いてすぐに王子さまは孤独に襲われた。......... 「砂漠って、すごくさびしいね.....」 |
“un peu”は、「ちょっぴり」とか「すこし」とかという意味です。内藤 濯さんは「すこし」と訳しています。この著者は王子の孤独感を強調するために「すごく」に変えてしまいました。そしてこう続けます。
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徹底的にひとりぼっちだったのである。 だからなんとか人間と友だちになろうとした。そのキッカケを探そうとして人の話をほうぼうに聞きに行ったのだ。
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この著者は原典を参照する誠実さがないか、あるいは、フランス語を理解できない人のようです。内藤 濯さんの日本語訳だけしか読んでいないように見受けられるのです。たとえば、
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『旅客を、千人ずつ荷物にして、えりわけているんだよ。』......... 乗客は荷物扱い、人間扱いされていなかったのである。.......
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「荷物にして」は内藤さんの誤訳です。「千人単位で」「千人毎に」「千人を束にして」というほどの意味ですから、ここでは列車に乗っているたくさんの人数を「千人」と表しているに過ぎないのです。もちろん、旅客を荷物扱いしているなどと、どこをどう読んでも読み取ることはできません。
こんなことも書いています。
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愛はひまつぶしで育つ 『ひまつぶし』とはキツネ一流の言い回しなのだが、要するに、『共に過ごす時間を多く持った』という意味である。とりたてて何も用がない時に何となく時を過ごすことを普通は『ひまつぶし』というが、それと同じように、とりたてて何もない時に四六時中一緒にいるような時間、それを共有することが『親しくなるためのコツ』なのだというのである。......... つまりごくごく自然に、共にひまつぶしをしたくなるような相手こそが、いつしか『たった一つの存在』『かけがえのない存在』になっていくのだ、というわけなのである。
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それでは、この本が主張する幸福論とはどのようなものなのでしょう?
著者自身の幸福論は姿を見せません。「玉座の陰から.....」という言葉がありますが、著者は、アラン『幸福論』,ラッセル『幸福論』,ヘルマン・ヘッセ『幸福論』の三つ、とりわけアランの『幸福論』を楯にとって論陣を張ります。『絶対的幸福』と『相対的幸福』がそのキーワードです。
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「アラン哲学の最大の特徴は、思考が決して現実を離れないということである。机上の空論は一切せず、つねにどう生きたら幸せになれるかを現実的に考える、したがってその思想は、たぐいまれな処世訓になっているのだ。........」
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著者は強引です。妥当性を検証することなく、自分だけの言葉を押しつけます。「赤ん坊が泣いている原因が、オムツのピンがお尻に当たって痛いせいなのに、秀才というものはそれに気がつかないものだ」と著者は言います。そんな者は、「秀才」でもなければ「頭のいい人」でもありません。でも、著者はそう決めつけます。それでなくては話が都合よく進められないからです。この強引さは、たびたびおかしな結論に読者を引っ張り込もうとします。
| それはつまり、日本の言葉でいうなら『一期一会』の生き方なのである。星も泉の水も友だちも、その時その時『たった一つ』の気持ちで接する。相手と出会う喜びを、『たった一つ』『たった一度』の気持ちで最大限に味わう、味わい尽くすぐらい味わう、そういう生き方なのである。..... |
この著者が最も重要視するのが『微笑』です。「微笑みなさい。そうすれば、相手は心を和ませてあなたに優しくしてくれる」(なんと実利的!),「それだけではなく、あなた自身も幸せな気分になれる」と主張します。
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微笑めば、喜びや満足があるかのような気分(つまり、いい気分)に誘導される。
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著者は、宇宙との一体化も重要視します。そして、「あとがき」で自分の体験を綴ります。
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四方八方、すべての方向が地平線まで何もないので(砂漠だから当たり前ですが)、........
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仕事でサハラ砂漠に行ったことがあるのだそうです。それは嘘ではないのでしょう。でも、この著者は、砂漠のただ中に立って四方を見渡したことはない筈だと私は思います。どんな砂漠であれ、平坦なものではありません。人間はちっぽけなものです。四方を見渡しても地平が見えることは極めて希。手近な砂丘の頂上まで登ってみても、なお果てしない砂や礫のうねりしか見えないのが普通です。『すべての方向が地平線まで』という光景を、不幸にして私は体験したことがありません。
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