理系の研究者の間では「日本語は科学的な記述に不向きである」という抜きがたい迷信がある。主語がない文章が作れたり、単数・複数を峻別する風習がなかったり、指示代名詞が何を指すのかが不明瞭になりやすかったりする、等がその理由である。しかし、これは当を得た論評とは言い難い。よく挙げられる例だが、たとえば英字新聞の記事;
| 「昨夜、ある宝石店にひとりもしくは複数の泥棒が侵入した。彼または彼女もしくは彼らは、ガラスケースを破壊して . . . 」 |
バカバカしいと言って良いまどろっこしさだが、泥棒の単複・性別が不明な内は、これ以外の表現が許されない。
日本語ならばこうなる;
| 「昨夜、ある宝石店に泥棒が入り、ガラスケースを破壊して . . . 」 |
どちらが優れているかは一目瞭然であろう。単複や性別を明示「しなければならぬ」というのは、文法の硬直化であって、科学的な記述に優れていると言うことではない。日本語はそれを明記しようとすれば(上記のように)可能である。両者を選べる柔軟性は、むしろ優れた特質と見なすべきものであろう。
それでは日本語が欧米言語に較べて柔軟であるかと言えば、そうとも限らない。結構複雑な活用形や係り結びは、硬直化といって良い縛りをつくり出している。昨今の若者言葉が我慢ならない日本語になる一番の原因は、その「縛り」から逸脱しているためである。日本語では、文章の末尾が文全体の風情を拘束してしまう性質がある。混用は許されない。すなわち、「です・ます」調と「だ・である」調の選択を余儀なくされるのである。
「引き締まった文体」という観点から各翻案を眺めてみると、内容比較とは別の姿が浮かび上がってくる。「です・ます」調の欠点は、同じ語尾の繰り返しを余儀なくされるため、文が単調になることである。語尾に合わせて文中の言い回しもゆるんだ感じになり易く、体言止めによる文の引き締めも叶わない。翻案の良否を別にして、どちらの口調を選択したかだけに注目すると、出揃った新訳群の縦書き・横書きと文末語尾の比較は次表のようになる。
| 三野 博司(論創社) | ||
| 倉橋 由美子(宝島社) | ||
| 小島 俊明(中央公論新社) | ||
| 山崎 庸一郎(みすず書房) | ||
| 池澤 夏樹(集英社) | ||
| 川上・廿樂(グラフ社) | ||
| 藤田 尊潮(八坂書房) | ||
| 辛酸 なめ子(コアマガジン) | ||
| 石井 洋二郎(ちくま文庫) | ||
| 稲垣 直樹(平凡社ライブラリー) | ||
| 河野 万里子(新潮文庫) | ||
| 河原 泰則(春秋社) |
| * 「です・ます」体であっても、辛酸 なめ子 の文章は破格。 |
| ** |
これを見る限り、作家や翻訳に携わる人は独自の文体を求め、文学者はそれに無頓着な傾向があるように思われる。組版の縦横と「です・ます」調の採用とは相関がない。