サンテックス彷徨
最後の半年

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 大型増槽を着けて航続距離が大幅に増えた F-5B が出現以降 F-5A は作戦には使用されなくなったが、廃棄はされず、練習機として使われたとのこと〔Roy C. Nesbit, The Last Days of Saint-Ex., Aeroplane:Vol.36 No. 2, 2008, pp. 76 - 81〕。080号機を含む F-5A は、この時期(1944年)、第一線から順次引退していました。
 1944 年のサンテックスの行動を把握するのは、重要な意味を持ちます。この際、多少信頼性が低い文書類も含めて、彼の飛行歴をあげつらっておきます。【1日違いの重複が2箇所あります。また、下表中、彼が操縦した搭乗機は、最後の 223 以外すべて F5A です。正規の出撃(F5B)については、サンテックスの出撃回数をご覧下さい。】
1944 年 サンテックス飛行歴・他(無事帰還した作戦出撃を除く)
月 日機 番 操 縦 士 目 的 備 考出 典
1944.02.14080 Cdt StEx 違反飛行 胴体着陸? 1
080 号 機 修 理 ?
1944.05.16 第31連隊(爆撃隊)所属の B-26 で Alghéro 基地に到着。写真家 John Phillips も一緒。 3
1944.05.24 063 Cdt StEx 訓 練   3
1944.05.26 080 Cdt StEx 連 絡 Santa Maria 基地へ。27日 Alghéro 基地へ帰任。 3
1944.05.28 080 Cdt StEx 訓 練   3
1944.05.29 080 Cdt StEx 訓 練   2
1944.05.30 写真家 John Phillips、Alghéro 基地を後にする。サンテックスとは永遠の別れとなった。【写真集の画像は5月10 - 30日の間に撮影】  
1944.05.31080 Cdt StEx 連 絡 サルディニアの Alghéro 基地を離陸し、Alger の第31連隊にいる友人を訪ねるため長距離飛行。2日後に Alghéro へ戻る。 2, 3
1944.06.03080 Cdt StEx 訓 練   3
1944.06.04080 Cdt StEx 連 絡 Villacidro 基地の 1/22 部隊へ。 3
1944.06.08080 Cdt StEx 訓 練   2
1944.06.14 再復帰後初の出撃。
1944.07.03080 Cdt StEx 訓 練 (cf. 下欄) 2
1944.07.03080 Cdt StEx 連 絡 Algier へ。5日 Alghéro 帰着。 3
1944.07.04080 Cdt StEx 出撃(?) 出撃記録見あたらず(この時期 080 は、もう出撃に使われていない。cf. 冒頭記述) 2
1944.07.08126 Cdt StEx   Tunis へ。10日 Alghéro 帰着。 3
1944.07.15080 Cdt StEx 連 絡 Villacidro へ。(cf. 下欄) 3
1944.07.15  Cdt StEx 連 絡 Gavoille と共に Villacidro 基地の第31飛行連隊へ。(cf. 上欄) 2
1944.07.16 ドラグーン作戦の内容について情報を有している操縦士を空中勤務から外しているか、再確認の要請・通達。 4
1944.07.17126 Cdt StEx 移 動 部隊、Borgo 基地へ移動。 3
1944.07.20080 Cdt StEx 連 絡 Algérie へ。OSS への移籍・雇用交渉不調に終わる)。26日帰着。(cf. 1944.07.21) 4
1944.07.21 Leleu、Henry 両大尉に対し、飛行禁止が正式に申し渡される(作戦内容を知っているため)。 4
1944.07.21080 Cdt StEx 連 絡 Alger/Tunis へ。27日帰着。(cf. 1944.07.20) 3
1944.07.24 Gavoille の息子の洗礼式に出席。代父を勤める(以前から頼まれていた)。 5
1944.07.30 夕刻よりパーティーに出席。翌朝まで所在不明(どこで過ごしたのかは現在でも謎)となる。
1944.07.31223 出撃・未帰還。
 出典:
(1) 1942 USAAF Serial Numbers (42-001 to 42-30031). http://home.att.net/~jbaugher/1942_1.html, [Last revised 2009.09.06]
(2) Patric Ehrhardt, Le Chevaliers de l’Ombre , 1994
(3) Georg Pélissier, Les cinq visages de Saint-Exupéry, 1951
(4) Roy C. Nesbit, The Last Days of Saint-Ex., in Aeroplane:Vol.36 No. 2, 2008
(5) Jules Roy, Passion et Mort de Saint-Exupéry.,1964.01.10

 解 説
 実に初歩的な失策で最新鋭の F5A を一機オシャカにしてしまったサンテックスは、当然にも操縦不適格者として、飛行停止(事実上の除隊)処分となりました(1943.08.12)。その結果、操縦桿から引き離されたサンテックスは、精神変調状態に陥ったのです。何とか 2/33 部隊へ戻ろうと、可能な限りの手を尽くします。自由フランス軍がド・ゴール派によって押さえられていたこともあり、実権を握っていたアメリカ軍上層部にさまざまな方法で接近を謀りました。何度も面会を求められ、手紙や電話で繰り返し催促されたアメリカ軍の方面軍幹部達は辟易し、あまりのしつこさに、ある司令官は「耐えられない。前線に出してやればすぐにも死んでくれるだろう。どこへなりと出してやれ!」と叫んだと伝えられるほどです。ネリーも含む複数の人々の奔走によって、彼は「空中勤務」に復帰を果たします(1944年4月から給与支払い再開)。ただし、爆撃機副操縦士として、彼の希望とは別の部隊へ、です。

 飛行禁止処分を解くに当たって、飛行回数5回という制限が付けられました。しかも、サンテックスが発令されたのは爆撃隊(1/22 部隊)の副操縦士としてであって、2/33 部隊には不法なモグリ操縦士として在籍していたのです【未帰還・死亡推定確認書類の所属は 1/22 部隊付け。書類署名は 1/22 部隊の係官】。その 2/33 中隊で「5回」の制限を使い切った上、更に制限を無視して飛び続けています。2/33 中隊司令官であるガヴォワールも困り果て、何とかサンテックスを空中勤務から外そうとしますが、彼はそれを受け入れません。
 頻りに(ときにはガヴォワールも一緒に)他部隊を訪れていますが、何とか飛び続けられる居場所を探し回ったものと思われます。7月17日、上部組織からの念押し通達によってガヴォワールの態度も一層強硬になり、サンテックスはますます追い詰められました。それでも彼はあがき続け、遂にはアメリカの OSS にまで縋りついています。もちろん、そんなことが受け入れられよう筈もなく、万策尽き果ててボルゴ基地へ帰ってきました。



 これから先は「空想」になってしまうのですが、彼は死ぬこと(=自殺)を決意したのだと思われます【9箇月にも及ぶ飛行禁止処分期間は、彼にとって地獄の苦しみを舐め尽くす煉獄の時間でした。その再来は、到底耐えられるものではありません】。前から約束していたガヴォワールの息子の洗礼式で代父を勤め終えた後、他の操縦士が飛ぶはずだった作戦に何らかの方法を駆使して無理矢理割り込み、不法に出撃して行ったと考えるのが正しいでしょう。
 戦闘機や対空高角砲が撃墜してくれるよう、無茶苦茶なコースで低空飛行を続けた後、願いを果たせず、自ら海に突入したのではないかと考えるのが、現在のところ、一番自然で無理がありません。【さまざまな証拠から見て、戦闘機に撃墜されたと信ずるべき状況が組み立てられません。高射砲も、ドイツ軍側に報告がありません。どのようなコースを飛んだのかさえ、定かではないのです。(諸説紛々、証拠もなしに言いたい放題の状態です。言うまでもなく、この拙ページの自殺説も確たる証拠があるわけではありません。)】

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 本当は、下欄が先にあって上の調査と結果に達したのです。内容の重要性を勘案して、記述を分割し、時間順を逆転記載しました。

* サンテックス搭乗の写真が残っている機体番号 42-13080(F-5A-10-LO)が、サンテックス出撃記録の中に見あたりません。単なるカメラマン向けのポーズだったのか、訓練飛行だったのか、それとも、出撃記録をもっと精査すべきなのか、いずれにせよいつまで経っても調査は終わりそうにありません。
 ⇒ サンテックスが胴体着陸させたことが判りました(上記「1944年 飛行歴・他」)。:Ser.No. 42-13080 bellylanded by Antoine de Saint-Exupery Feb 14, 1944. (http://home.att.net/~jbaugher/1942_1.html) 【飛行禁止期間中であることに注目して下さい。もちろん、「出撃」や「訓練」であろう筈がありません。論外の「犯罪」ですが、本人よりも、部隊長であるガヴォワールの責任の方が重大です。つまり、サンテックスは、ガヴォワールを居直り脅迫する材料を握っていたわけです。記述が正しいのか否か、調査中です。080 号機が「事故後(または 1944.01.17 すなわち、事故以前)“piggyback”(人員輸送のため、操縦席後ろの風防内に人を座らせる簡易型式の特殊複座機) に改造された」という別説は本当なのか。ジョン・フィリップスが撮ったのは、その piggyback なのか? 撮影されたのは、やはりアルゲーロなのか?(遠景に写っている P38 型機のシリアルナンバー確認とその領収時期) 等々、急ぎ突き合わせをしておりますが、矛盾・不明な点があり、釈然とした結論に到りません】

 彼のことですから、機体故障ではなく、注意散漫による事故でしょう【もしバレれば、サンテックスの操縦士復帰は完全になくなってしまいます】。ジョン・フィリップスの写真集には各フレームの撮影月日が記載されていません(そのため、まるでサンテックスが 080 号機を駆って出撃したかのような誤解を与えます)。そしてもちろん、このサンテックスのヘマには口を拭って欠伸にも出しません。ジョンもまた、サンテックス擁護側の人物なのです。そもそもフランス側の記録・主張には、サンテックスにとって不名誉な事実を隠蔽しようとする傾向が顕著です。それに比べて、軍の足を引っ張るサンテックスの存在そのものに眉を顰めていたアメリカは、容赦なく記録簿所定欄を埋めて行きます。「事実」を発掘するためには、アメリカの記録を調査するべきであると思われます。

 明確ではありませんが、当該写真集中の 080 号機と思われる操縦席後ろの風防の中がスッキリしている(P-38 型では、タンデム空間でなければ、ワイヤーやパイプが走り回っているのが普通)ので、piggyback タイプであると考えて矛盾はありません。したがって、撮影は1944年5月と見て問題はなさそうです。【John Philips, Alghero/Sardinia, May 10 - 30, 1944; poet and pilot Antoine de Saint-Exupéry, SCALO, 1993】

 サンテックス搭乗の写真がある 080 号機(Jeanne と愛称された)は、2/33 部隊【 II/33 から 2/33 への改称については、別の機会に説明します】にとって、特に愛着のある機体だったようです。1943年中は主力機のひとつとして作戦に使用されました。公式の使用をざっと拾っただけですが、それでもこれだけ上がってきます。(サンテックスは飛行禁止処分期間中のため、出撃搭乗していません。)
42-13080 号機 (F-5A-10-LO) 1943 年 出撃記録
月 日 操 縦 士 目 的 滞空時間・高度 備 考
1943.08.09 Ltt Leleu 南フランス地図作成 6H00, 10km 基地:Djidjédi
1943.08.10 Ltt Enfru Perpignan à Séte 地図作成 5H00, 10km 基地:Djidjédi
1943.08.23 Ltt Enfru サルジニア地図作成 4H05, 10km 激しい迎撃を受ける。
1943.09.01 Ltt Leleu サルジニア地図作成 2H35, 10km  
1943.09.30 Slt Henry 南フランス地図作成 6H35, 10km 天候不良で撮影できず
1943.10.21 Cne Enfru イタリア北部地図作成 7H15, 10km  
1943.10.24 Ltt Henry イタリア北部地図作成 5H45, 10km  
1943.11.05 Cne Leleu イタリア北部地図作成 5H00, 10.3km  

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