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サンテックスの最期に関しては、「事故説」「自殺説」「撃墜説」の3つの可能性に絞られました。その中で、「撃墜説」が成立する可能性は、ゼロに近いほど低いものであることを、はっきり認識していただきたいと存じます。 2008年に突如として出現した「リッペルト仮説」も含めて、過去に現れたあらゆる「撃墜説」は、すべて、限りなく“ゼロに近い” 範疇に入っていることを、下記2つの「関連ページ」を検討の上、あなた自身で確認して下さい。 |
| リッペルト仮説へのリンク糸口は、左欄“憶測諸説”中の“諸説略解”欄/“リッペルト説”項へ移行しました。 |
| 月 日 | 事 項 | 解 説 |
| 1943.05.04 | サンテックス、北アフリカ(Oran, アルジェリア)に上陸。 | |
| 1943.06.04 | 復 帰 | ラグーア Laghouat 基地(アルジェリア。海岸線から 300km 内陸部)の2/33部隊に到着。【エリオット・ルーズヴェルト Eriott Roosevelt 麾下のアメリカ軍第3写真偵察大隊(本部は Oudjda 基地 (Oujda);アルジェリア国境近くのモロッコ辺縁 )指揮下に入り、最新型の F4A 偵察機(4機から出発)を配備される】 |
| 1943.06.08 | 訓 練 | P-38 型機を初操縦。 |
| 1943.06.19 | 資格取得 | 高々度飛行免許(軍用機)取得。【 Bloch 174 機で高々度飛行を行っていたはず。新設資格か? “P-38 型機操縦資格” の誤り?】 |
| 1943.06.25 | 昇 進 | 少佐に昇進。 |
| 1943.07.01 | 2/33部隊、La Marsa 基地(Tunis) に移動。 | |
| 1943.07.21 | 出 撃 | Tunis(La Marsa 基地)発、フランス南部偵察。 |
| 1943.08.01 | 出 撃 | Tunis(La Marsa 基地)発、フランス南部偵察【エンジン不調により引き返す。車輪接地後、ブレーキ作動を忘れたための滑走路端オーバーランによる機体大破(使用不能・廃棄)】 |
| 8月1日の着陸失敗事故のため飛行停止処分【「操縦士」であるから、事実上の除隊処分。実質予備役に逆戻り。精神的には極めて不安定。病的な症状もたびたび観察されている。】 | ||
| 1944.01. | 2/33部隊、ナポリ近郊のポミリアーノ Pomigliano に移動。 | |
| 1944.04.23 | サンテックス、2/33部隊を訪ねポミリアーノへ。 | |
| 1944.04. | サンテックス、フィリップスと共にナポリへ。(cf. 上欄と同じか?) | |
| 1944.04.29 | 31 大隊の 1/22 部隊へ、B-26 副操縦士として配属される【本人から無視されてしまい、書類上の発令に過ぎなくなった。彼は再招集の事実だけを悪用して、勝手に 2/33 部隊へ帰任してしまう】。 | |
| 1944.05 | 2/33部隊、サルディニア島のアルゲーロ基地に移動。 | |
| 1944.05.16 | 再復帰 | アルゲーロ基地(サルディニア島)の2/33部隊に到着。【写真家 John Phillips も一緒に、第31大隊(爆撃隊)所属の B-26 で。本来は、第31大隊詰め副操縦士として同島ヴィラシードロ基地に赴任しなければならない】 |
| 1944.05.24 | 訓 練 | |
| 1944.05.26 | 連 絡 | Santa Maria 基地へ。27日 Alghéro 基地へ帰任。 |
| 1944.05.28 | 訓 練 | |
| 1944.05.29 | 訓 練 | |
| 1944.05.30 | 写真家 John Phillips、Alghéro 基地を後にする。サンテックスとは永遠の別れとなった。【写真集の画像は5月10 - 30日の間に撮影】 | |
| 1944.05.31 | 連 絡 | サルディニアの Alghéro 基地を離陸し、Alger へ。第31大隊にいる友人を訪ねるための長距離飛行。2日後に Alghéro へ戻る |
| 1944.06.03 | 訓 練 | |
| 1944.06.04 | 連 絡 | Villacidro 基地の 1/22 部隊へ。 |
| 1944.06.04 | ローマ解放 | |
| 1944.06.06 | 出 撃 | Marseille 偵察【再復帰後初の出撃】。エンジントラブル(左エンジン出火)で引き返す。 |
| 1944.06.06 | ノルマンディー上陸作戦 | |
| 1944.06.08 | 訓 練 | |
| 1944.06.14 | 出 撃 | 南西フランス Rodez 地区偵察。 |
| 1944.06.15 | 出 撃 | 南西フランス Toulouse 偵察。酸素マスクトラブルで引き返す |
| 1944.06.23 | 出 撃 | 南フランス Avignon 地区の偵察。敵戦闘機2機の迎撃を受ける【ドイツ空軍戦闘機隊は2機一組 Rotte が原則】 |
| 1944.06.29 | 出 撃 | フランス南部偵察。飛行中にエンジントラブル。【右エンジンだけの片肺飛行で Bastia に帰投。なぜトリノ上空にいたのか、納得できる説明はなされていない。(多分、サンテックスの方角錯誤のせい。さもなくば、軍令無視の「イタリア散歩」中にエンジン不具合を起こした。〔カメラスイッチ切り忘れ(?! 本当とは思われない)で〕トリノ・その他の撮影画像〔二度目の戦功章(棕櫚十字賞)を受けた〕が残っていなければ、別の航路を主張しただろう。サンテックスの言動には嘘・齟齬が多く、彼自身の弁明は信用できない)】 |
| 1944.07.03 | 連 絡 | Algier へ。5日 Alghéro 帰着。 |
| 1944.07.08 | 連 絡 | Tunis へ。10日 Alghéro 帰着。 |
| 1944.07.11 | 出 撃 | アルプス一帯の偵察。 |
| 1944.07.14 | 出 撃 | Annecy 方面偵察。機体は米軍所属 |
| 1944.07.15 | 連 絡 | Gavoille と共に Villacidro 基地の第31飛行連隊へ。 |
| 1944.07.16 | 決行が間近に迫っているドラグーン作戦について内容を知っている者を空中勤務から外すよう、上部組織から各部隊に対して念押しがあり、21日には、ルルー,アンリ両大尉に対して飛行禁止が言い渡された。サンッテクスも該当者に含まれていた【飛行回数5回の制限も疾うに過ぎ、事故も起こしている。搭乗者名簿に彼の名前は、既になかったろうと思われる】が、彼は頑強に反抗し、隊長ガヴォワールの説得にも耳を貸さなかった。 | |
| 1944.07.17 | 移 動 | 2/33部隊、バスチア - ボルゴ基地(コルシカ島)へ移動 |
| 1944.07.18 | 出 撃 | アルプス一帯の偵察。 |
| 1944.07.20 | サンテックス、ボルゴ発、アルジェへ 【無許可? 少なくとも、公式の飛行記録には見当らない】。Bill Donovan (William Joseph Donovan) に会い、OSS (Office of Strategic Service, USA。CIA の前身。Maquis 支援・その他の作戦を行っていた) で雇ってくれるよう懇願(むろん受け入れられず)。07.26 ボルゴへ帰る。(cf. 下欄)〔Roy C. Nesbit, The Last Days of Saint-Ex., Aeroplane:Vol.36 No. 2, 2008, p. 80〕 | |
| 1944.07.21 | Alger へ。(cf. 上欄) | |
| 1944.07.21 | Leleu、Henry 両大尉に対し、地上勤務専任が正式に申し渡される(作戦内容を知っているため)。 | |
| 1944.07.24 | Gavoille の息子の洗礼式(Alger のラ・マルサの教会で行われた)に出席。代父(宗教上の立会人)を勤めた(以前から頼まれていた。代母はマースト将軍婦人)。 | |
| 1944.07.24 | Alger から Tunis へ(ピギー・バックである 080 号機にルーセル准尉を乗せて)。27日ボルゴ帰着。(cf. 1944.07.20 欄) | |
| 1944.07.30 | 夕刻のパーティーに出席 | 日曜日、部隊仲間と。パーティー中に居なくなり、翌朝まで所在不明【現在に至るも、どこで過ごしたか判明していない】。 |
| 1944.07.31 | 出撃・未帰還 | 搭乗当番ではないのに無理やり搭乗したのが実情と考えられる。 【2000年になって、(作戦目標へのルートを全く外れた)マルセイユ南方の地中海で乗機残骸の一部(左ターボチャージャーと着陸装置)が見つかった。大まかな墜落海域は絞られたが、正確な墜落地点は不明。】 |
| 1944.08.15 | ドラグーン作戦(南仏上陸) | |
| 1944.08.24 | パリ解放 | |
| 時 刻 * | 事 項 |
| 前 夜 | 何処か(どこにいたか、現在でも判っていない) で、マキの指導者ダロス Pierre Dalloz とネリーに宛てて、手紙2通を書く【宿舎自室の机の上に残した。遺書(すなわち、自殺を決意)と見る説がある】。 |
| サンテックス、前夜から所在不明。早朝、バックアップ操縦士(一説には臨時に代理を買って出た。一睡もしていない)のピエール・シグレル Pierre Siegler 大尉が宿舎で待機 **。 | |
| 7:30 | サンテックス、宿舎の士官食堂に現れ、デュリエ Duriez 中尉 *** と食事(バター付きパン【焼いた食パンなのか、ロールパンやクロワッサンなのか不詳】とクリームコーヒー)。予備待機のシグレル大尉は自室のベッドへ。 |
| デュリエ、サンテックスをジープで飛行場まで送り、ピストにいた若い整備兵シャルル・スティ Charles Suty と共にサンテックスが飛行服その他を着けるのを手伝う(8時頃から)。操縦席のマイクロフォンコードの接続等も行った ****。 | |
| 副官のルッセル Roussel とポティエ Potier 特務曹長、滑走開始前の操縦席・機体を最終点検 **** | |
| 8:45 | 離陸。 |
| 12:30 | 帰投予定時刻を過ぎる。 |
| 14:00 | 燃料切れの時刻が過ぎ、暗い予感が広がる。【燃料積載量:巡航速度で5時間】 |
| * 連合軍時刻(ベルリン時刻と同じ。グリニッジ時刻とは2時間異なる。) |
| ** バックアップが居たのならサンテックスは正規の順番、(シグレルはバックアップではなかったらしい。その夜遅く宿舎に帰ってきて、偶然サンテックスが居ないのを見つけた。バックアップがおらず、準備が整っていない他の操縦士に迷惑を掛けないため)臨機に代理に立ったのなら、サンテックスは誰かを押し退けて搭乗割りに入り込んだ可能性が高い。 【バックアップは居るのが普通。特に老齢で身体障害者のサンテックスが当番操縦士なら、バックアップは必ず用意された筈。サンテックスは搭乗者名簿になく、当然、当日の飛行当番ではなかったとする証言と、当日当番表のトップに記入されていたとする説と、相容れない2説がある。いずれにせよ、シグレルは、その朝サンテックスが飛ぶことを知っていたことになる。】 |
| *** Raymond Duriez。1944.07.27、223号機を駆って南フランスの偵察に出撃。4日後にサンテックスがこの機に乗って出撃、未帰還となった。デュリエはライカの小型カメラを所持しており、隊内の様子やサンテックスのスナップショットを撮ったりしている。info-pilote, Nº654, Sptembre 2010, p.47 |
| **** サンテックスが飛ぶ場合はいつも、オルコント以来の戦友で隊長であるガヴォワールが行っていた。ガヴォワールは〔島外にいたわけではなく〕彼の宿舎にいたので、サンテックスが飛ぶのなら必ず飛行場に来たはず。事実、彼はサンテックスが飛ぶのを知らず、後刻飛行場に来たとき、「なぜ彼を止めなかった!」と、デュリエ中尉を怒鳴りつけている。 【尚、ガヴォワールは前日に搭乗しており、帰途、アメリカ軍第23写真偵察中隊のメレディス Gene C. Meredith 少尉機(F-5B 42-68294, 別れた後の 11:15(グリニッジ時刻)、リッペルトも所属した 3./JGr 200 の Guth 軍曹に撃墜された。グートは撃墜を無線報告し、連合軍傍聴部隊もそれを傍受。コルス岬のレーダーは、2機が交錯して1機が消えた後、残る1機がフランス本土方面へ飛び去るのを観察していた)と暫く一緒に飛んでいる。作戦内容を熟知しているガヴォワールが出撃搭乗する筈はないので、余儀ない理由〔作戦関与将校の直接視察・他〕があったか、安全な場所への連絡飛行であったかのいずれかであろうと思われる。】 |