没 落 貴 族

田舎貴族

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 サンテックスのフルネームは長たらしい* のでこの際は省略するとして、最小限の姓名はAnoine de Saint-Exupéryといいます。この“de”が(中世以降現在まで)、無言の内に貴族であることを主張する姓となっています。

* Antoine Jean-Baptiste Marie Roger de Saint-Exupéry。


 そもそも人類は、個体を識別するのに姓と名という2段命名法を持ってはいませんでした。名前だけだったのです。集落の人口が増えてくると、同名の人物が現れることは避けられません。多くの場合「誰々の息子の誰某」という形で区別しました。この方法は、他所の土地に留学したときのように、「誰々」がどこの馬の骨かも判らない場合は、あまり有効には機能しません。このような場合には、出身地で区別されることが多かったようです。たとえば、レオナルド・ダ・ビンチ。彼のことを、姓はダビンチ・名はレオナルドと思っている人が多いのですが、違います。彼は平民の出で、姓はありません。レオナルドは珍しい名ではありませんから、多くの「レオナルド」の中から、よそ者であった彼を区別するために、「ビンチ村(出身)のレオナルド」と呼んだのです。このように、「名」を修飾する限定詞として、地名が使われる例は少なくありません。
 日本でも、「伊豆の守」とか「上総の介」とかと、領地と職名で人物を表した時代がありました。同様に、「ブルターニュ公」といえば、ブルターニュ地方を領地とする領主を表します。領地が世襲されれば、それがそのまま家系を表すことになりました。あるいは逆に、無名の土地を征服したり開墾したりすれば、その人のあだ名や家紋等が、その土地の名前になりました*
* その国を支配する王朝の名前で国を表すことがあります。セルジュクトルコとか、ササン朝ペルシャとかの表現法がそれです。現在でもその例が存在しています。サウジアラビアという国があるのはご存じでしょう? あれは「サウド家のアラビア」という意味です。明治憲法下の日本と同じように、政府や軍隊はいうに及ばず、国土も国民も、すべてサウド家の私物なのです。それが「王制」というものです。


 いずれにせよ、領地名と姓とが一体化し、やがて“de”は「領主」すなわち「貴族」専用の姓を表すものとなったのです。「サンテグジュペリ村の領主の家系であるピエール」は「Pierre de Saint-Exupéry」,その時点での家長の妻は「Madame de Saint-Exupéry」(サンテグジュペリ夫人。英語ならば「Lady Saint-Exupéry」)と呼ばれます。【「Madame B***」は「B*** さんの奥さん」,「Madame de B***」(B 夫人)ならば貴族の家柄である B*** 家の令夫人であることを表します。】

 Saint-Exupéry家は1073年にまでさかのぼる「由緒正しい名門貴族」ということになっています。一方で、サンテックスの出自は「没落貴族」であるとも。一体「貴族」とはどのようなものなのでしょう?

 所有地の拡大・合併は、家族⇒一族⇒部族と進み、部族同士の抗争(戦争)によって更に広範なものとなり、ついには国と国との戦いへと発展して行きます。広大な国土を一人の人間が直接管理することは不可能ですから、代理人に任せることになります。王と領主の主従関係の確立です。いずれにせよ、支配の原動力は武力ですから、王や領主となる人間の元を糾せば、野武士・山賊や海賊に他なりません。(このことは、後述する「貴族であり続けるための条件」で意味を持ちます。)
 貴族の発生は、王制の発達と軌を一にするわけです。時代と国によってさまざまな特殊事情を孕みますから、ここでは太陽王と呼ばれたルイ14世とその後二代ほどのフランスの例を垣間見ることにしましょう。ベルサイユ宮殿を舞台とした華やかな王朝文化の爛熟期であると共に、次第に近づいてくるフランス革命の足音が、やがて貴族社会を奈落の底へ叩き落とす直前の絶対王制の絶頂期でもあります。

 当時フランスの人民は、第1身分(高級僧侶)・第2身分(貴族)・第3身分(平民)の3階級に分かれていました。このうち、貴族人口は約40万人、人口のほぼ1.5%を占め、フランス全土の25%の土地を所有していました。
 この貴族は、3つの階層に分かれます。まずは山賊の末裔である旧来の貴族を帯剣貴族と総称します。剣を携えることを許され、戦いとなれば自前の武装集団を率いる階級。これにはふたつの「貴族」が含まれます。
 パリやベルサイユの宮殿にたむろして、政治の中枢に関わりを持つ帯剣貴族集団を「宮廷貴族」と呼び、約 4000 家を数えました。これに対して、宮殿には参上せず、代官として各地の統治に当る地方貴族をオブロー(Hobereaux ハヤブサ;小形の鷹。小鳥しか獲物にできないことから田舎貴族の蔑称)と呼びます。
 帯剣貴族に対して、法服貴族というのがあります。第3身分の中から、経済力をたくわえたブルジョワが生まれました。そのなかでも特に大きな財をなした豪商たちは、王家に金を貸し付けるほどになり、その経済力と発言力は、政治にとって無視できるものではなくなってきます。一方で、帯剣貴族たちの官職は、高額の付け届けがなくては思うに任せないほど腐敗が進んでおり、王家や上級貴族の重要な収入源として、官職売買が行なわれていました。これに便乗して貴族の仲間入りを果たした上部ブルジョワジー出身の成り上がり貴族を「法服貴族」といいます。武器を持つことは許されておらず、「領地」を持たないものもあります。

 サンテグジュペリ家は「伯爵」**家ですが、典型的な田舎貴族でした。宮廷貴族の命運が、王の寵を得られるか否かにかかっていたのに較べれば、比較的安泰な存在ではありました。しかし、王制そのものが覆される革命の嵐に見舞われては、パリとの距離(すなわち、革命が波及するまでの期間と粛清の程度)だけが、生き延びられる可能性を規定する要因でした。断頭台から免れれば、王政復古にともなって、また息を吹き返すこともあったのです。さまざまな運命的出来事が、貴族たちの盛衰***を分けました。多くに枝分れしたサンテグジュペリ家のうち、サンテクスの家系は、フランス革命とそれに続く共和制・帝制交代の度重なる波を被って、サンテックスの祖父の時代に没落します。

**  多くの伝記作家はサンテグジュペリ家を「伯爵」家としていますが、本当は「子爵」なのかも知れません。雑誌 ICARE No. 69(サンテックス特集1号)にサンテックスの出生届の内容が掲載されており、「子爵 Jean de Saint-Exupéry(無職)とAndrée Boyer de Fonscolombe(25歳)の息子」(リヨン第2区区役所、出生届第1703番)とあります【母親の名前は Marie ですから、誤記または欠落があるようです。年齢は 25 歳で正しく記載されています。】。ICARE は編集も印刷もフランスでなされていますから、「comte」が「vicomte」に誤記・誤植される可能性は低いと思われます。受理された出生届は公文書ですから、権威のあるものですし、出生届は家族もしくは近親者が記入し、父親のサインもあるはずですから、届け出書類の記入に誤りがあろう筈はありません。誤記がないのであれば、資料価値は高いものです。

 貴族社会にも「爵位」と呼ばれる階層構造があります。公爵(duc, 女性が爵位を継承する場合は duchesse。以下同じ)・侯爵(marquis, marquise)・伯爵(comte, comtesse)・子爵(vicomte, vicomtesse )・男爵(baron, baronne)の5階級です。【サド侯爵 Marquis de Sade,ポンパドール侯夫人 Marquise de Pompadour のように使います。サド侯爵の妻は Marquise de Sade ではなく Madame de Sade です。ただし、誤用が定着して、それぞれの妻のことを爵位の女性形を付けて呼ぶことも少なくありません。】

*** 徐々に経済力を失ったのであれば、それなりに落ちぶれた生活を維持する方策も立ちますが、革命や敗戦で一挙に生活基盤を失った場合は悲惨の極みでした。多くの場合、一家の主だった男性は戦死か断頭台送り。運が良くても牢獄に幽閉の身で、一族の生活を支える役には立ちません。家族の食費を得るために「伯爵令嬢」が夜の街角に立って春をひさぎ、「子爵令夫人」が闇成金と一夜を共にするという光景が珍しいものではありませんでした。(多くは夜の姫君たちの作り話だったのでしょうが、本物の零落貴族子女が混じっていたことも事実でした。なにしろ、宮廷貴族だけでも 4000 家もあったのです。もちろん、貴族に限ったことではありません。遠く東の涯ての島国でも、同じことが起きました。今はなくなってしまった上野駅の地下道が家も職も失った人々で埋まり、かっぱらいの獲物を捜して浮浪児が闇市をさまよった光景は、もはや老人だけが知る過去のものとなりましが、悲しいことにこの地球上のあちこちでは、まだ現実の出来事なのです。)

 法服貴族は別として、本来の貴族社会にはさまざまな不文律が生きていました。その一つに、収入源に関するものがあります。貴族は、領地を持っていなければなりません。領地を失えば、その瞬間から「元貴族」すなわち没落です。領地を確保していても、貴族が行ってはならないことがありました。自ら労働をして収入を得てはならないのです。領地から得られる小作料や税だけで暮らすのが貴族たる者の第一条件でした。商業に携わることも許されません。それは堕落と見なされ、貴族の面汚しとして貴族社会から放逐されます。これも「没落」です。
 たった一つの例外は、海運業です。陸運業は駄目なのに、海運業を営むのは構わないのです。海賊あがりの貴族もいたことを思い出してください。いつまでも海賊ではいられません。「領地」を持たない海賊系の貴族が平和裡に収入を得る途は海運業以外にはありませんから、これは貴族の職業として認められました。「王」が国家の支配者でなくなってからも「貴族」は生き延び、これらの不文律も生き続けています。ヨーロッパの王族・貴族は国境を越えて姻戚関係が広がっており、この不文律は(英国も含めて)ヨーロッパ白人社会の上流階級に普遍的な常識と言ってよいものです。
 国家体制の整備に伴って、貴族が養っていた私兵は国家に吸い上げられ、国軍として整備されます。貴族は困りました。サラリーマンはもってのほか、会社経営でさえ貴族であることを捨てることを意味するのですから。二男以下は遊休化して長男に養われるだけの穀潰しの存在となり、結婚して家族を構えることなどできません。やむを得ず、高級官僚・政治家と士官以上の軍人だけは、サラリーマンでもよいという逃げ道がもうけられました。(もとを糾せば山賊や海賊ですから、いうなれば軍人は本来の職業です。貴族ですから、人に指図を受ける兵卒では体面が潰れます。将校でなければなりません。)

 サンテックスの祖父は県の副知事を務めていました。この時点では、なんとか貴族としての体面を保っていたわけです。しかし、それも失脚し、保険会社を興します。隠れもない「没落貴族」への転落です。サンテックスの父も、軍職を退いて保険会社につとめました。しかし、いつの日かサンテグジュペリ家が貴族に返り咲く夢を捨てきれなかったものと思われます。サンテックスの出生届に、「無職」と記入しているのです。公式文書である出生届に“ソレイユ保険会社ローヌ支所長”と「没落」の証拠を残したのでは、貴族の家系に傷が付きます。見え見えの嘘として役所の係員から冷笑されようとも、貴族の見栄を押し通したのでしょう。
 サンテックスが兵学校****を受験したのも、「貴族」であることと関係があります。将校となれば貴族としての面目は保たれるのです。でも、サンテックスの成績は悪く、入校の見込みは低かったものと思われます。ナポレオンの例を引くまでもなく、フランスは大陸に覇を唱える陸軍国です。日本や英国とは異なり、海軍の地位は低いのです。それなのに、士官学校ではなく兵学校を目指したのは、士官学校の難関はとてもくぐり抜けられそうにない成績だったのだろうと想像できます。【サンテグジュペリ一族は、ゴリゴリの王党派揃いでした。海軍は王党派の牙城だったので、親族会議が海軍への応募を決めたという説もあります。】フランスの“Grandes Ecoles”は(陸士海兵も含めて)年齢制限があり、2年間しか受験のチャンスがありません。サンテックスは合格できませんでした。

**** 海軍将校を養成する学校です。日本では、海軍士官学校を海軍兵学校、陸軍のそれを陸軍士官学校と呼びました。そのため現在でも、外国の海軍「士官学校」を「兵学校」と訳す風習が残っています。(両方併せて陸士海兵と省略形で呼ばれます。日本では兵学校の方が難関で、一高・三高に次ぐランクでした)。
 ここを卒業すれば自動的に少尉になります。佐官以上の上級将校になるためには、さらに「海軍大学校」「陸軍大学校」と呼ばれた教習過程(受験資格は、中尉か大尉で勤務成績優秀な者)を終了するのが、出世コースでした。

 サンテックスは掟破りの裏工作を連発して陸軍航空将校*****になりましたが、所詮、兵隊あがりの叩き上げに過ぎず、士官学校を卒業した「本チャン」ではありません。指揮官となれる可能性は極めて低く、貴族の面目を保ったとは言い難いのです。
***** 1922.10.20 陸軍少尉。(フランス空軍の発足は1928年。因みに、太平洋で死闘を繰り広げ、歴史上初の空母同士の決戦まで行った日米両国には、第二次世界大戦終結まで「空軍」はありません。ラバウル航空隊の零戦と初めて互角に渡り合ったのは、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を根拠地にチャンスボートF4Uコルセアを駆ってソロモン海上空を制覇した「海兵隊」の航空部隊でしたし、日本を焼け野原にした B29 の大編隊も、合衆国「陸軍航空部隊」の所属でした。米国空軍の発足は1947年7月26日のことです。)

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