サンテックス略歴

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 サンテックスの人生は、波乱万丈といってもよいほど起伏に富んでいます。操縦士である彼は、マドリッド,モスクワ,アテネ等、ヨーロッパ内はもとより、アフリカ,南北アメリカ,そしてなんと、ヴェトナムにまで脚を伸ばしています。
 呆れるくらい頻繁に、行く先々で事故を起こしています。ロシア上空を通過して東京への飛行も計画しましたが、ソ連の許可が下りませんでした。もし実現していれば、ウラル山脈に激突するか、シベリアに不時着するかのどちらかに終わっていたことでしょう。リビア砂漠で航法を誤って砂丘に接触墜落したサイゴンレース出発の夜も、あまりの計画の杜撰さに周りの人々の大半は「これでサンテックスも死ぬ」と覚悟していたといいます。強運の彼は、この遭難からも九死に一生を得て奇跡的に生還しました。
 サンテックスは地球規模であちこち移動しています。主なものを年表形式にまとめてみました。年代を追って、彼の足跡を辿ってみましょう。【資料によって年月が異なっている場合があります。諸説・異説が入り乱れて事実が定かでないものも、一応そのままの形で採録しました。そのため重複や矛盾した記述が残っています。】

主な出来事と居住・移動略歴

1896.06.08 ジャン・ド・サンテグジュペリ(Jean de Saint-Exupéry)とマリー・ボワイエ・ド・フォンコロンブ(Marie de Fonscolombe, 1875.4.9 生まれ)、サンモーリス・ド・レマンス(Saint-Maurice de Rémens)館で挙式。
【マリーの大叔母ガブリエル・ド・トリコー(63歳,伯爵夫人 comtesse de tricaud,旧姓ド・レトランジュ Gabrielle de Lestrange)が見合い・挙式を取り仕切った。】
ド・トリコー夫人(Gabrielle de Lestrange, comtesse de tricaud)の持ち家であるリヨン市内アパルトマンに居住

【挙式から長女出産までの日数が通常より短いこと、短期間に5人もの子供をもうけている(マリーの授乳性無月経機能が弱く、かつ、ジャンはかなり性的にアクティヴな性格であったらしい)ことを考えると、サンテックスの性的ハイパーアクティヴな気質は、父親譲りなのかも知れない。】



1897.01.25長姉マリーマドレーヌ(Marie-Madeleine, 愛称;Biche)誕生【父母が挙式してからマリー・マドレーヌを出産するまで33週。長じては蒲柳の質で、29歳で早死(結核)をしたが、子供の頃の彼女は太っていて成長も良く、早産であった兆候は認められない】


1898.01.26次姉シモーヌ(Simone, 愛称;Monot)誕生【サンテックスの死後、最終的にド・サンテグジュペリ家をつぐことになる。】


1900.06.29サンテックス(Antoine, 愛称;Tonio)誕生。


1902. . 弟フランソワ(François)誕生


1903. 妹ガブリエル(Gabrielle, 愛称;Didi)誕生【5人兄弟姉妹のうち最後まで生き残ったので、母マリー/次女シモーヌの遺産としてサンテックスが残した財産の半分を最終的に相続し、嫁ぎ先の d'Agay 家に莫大な富と、サンテックス絡みの事項に関して、訴訟をも含めた容喙の口実をもたらすことになる。(サンテックス家が存続していれば、外様に過ぎない d'Agay 家にそんなでしゃばりが許されるはずもない)】


1904.03.14父親死去(41歳。サンテックス4歳,母親28歳)。一家、10月までの半年は サンモーリス・ド・レマンス村サン・モーリス・ド・レマンス館(ド・トリコー夫人の住居)、残り半年は、リヨンのマンションか南仏ラ・モールの母の実家(父親の葬儀もここで行った)で過ごすようになる。
【サン・モーリス・ド・レマンス館では、母親と二人の姉は2階(一説では1階)に、サンテックスと弟妹の三人は住み込みの世話係と共に3階に住んだ。】


1907. 祖父死去。
【遺産の一部、サンテグジュペリ家当主であるサンテックスにも。】


1909. ル・マンへ転居
    .10.07聖十字聖母学院(父親の母校)入学


1912始めての飛行体験(アンベリューベルトー・ウロブレウスキー機


1914.08.01第一次世界大戦勃発
    .10. モングレ聖母学院(リヨン)に転校
    . . 山高帽子のオデュッセイ」を書く。


1915.01. 聖ヨハネ寄宿校(スイス,フリーブル,マリア修道会)に転校


1917.06.10弟フランソワ死去(心臓リューマチ)
    . . 海軍兵学校受験準備のため、サン・ルイ中高等学校(パリ市内)に通学。
【夜の街へ抜け出すことが多くなる。ランデヴー(デート,逢い引き)と称していたが相手は「行きずり」の(つまり、その種の職業の)女性。
母親へ頻繁に金を無心(チョコレート,山高帽,靴紐,etc. の購入目的。多分「ランデヴー」代も)】
    . . ルネ・ド・ソシーヌ(学友の姉。2歳年長)と知り合う(生涯片想いに終わる)
    . . このころ療養中のルイーズ・ド・ヴィルモラン(Louise Levêque de Vilmorin, 1902.4.4生まれ。学友の姉)と初めて出会う
    .10. ボシェ中高等学校に寄宿。
【監視役の親戚筋が素行不良を心配して親元へ通報、全寮制のボシュエ学園へ転校させられた。】


1918.11.18第一次世界大戦終結
    . このころ貴族主催のサロンにデビュー。ヴィルモラン邸(ルイーズの部屋へ行くのが目的),ソシーヌ邸(ルネが目当て),イヴォンヌ・ド・レトランジュ邸
    .12. 海軍兵学校落第。
    . 受験に専念するためヴィダル将軍家(ブザンソン)に寄宿。


1919.06. 海軍兵学校2回目の落第(受験資格を失う)
    .10. 美術(芸術)学校 École nationale supérieure des beaux-arts(パリ)建築科 section architecture 聴講生 auditeur libre


1920. . サンジェルマン・デプレのホテル・ラ・ルイジアーヌやマラケ河岸通りのレトランジュ邸に滞在。【女遊びを覚え、カフェやナイトクラブに入り浸る】
    . 4. トリコー伯爵夫人死去。サン・モーリス・ド・レマンス館と多額の遺産、サンテグジュペリ家とフォンコロンブ家のものに
【トリコー夫人は、姪であるフォンコロンブ家の2姉妹がたいそう気に入っていた。死に際して、姉のマリーには現に住んでいるサン・モーリス・ド・レマンスの館と250ヘクタールもの敷地・田畑を、とうとう結婚相手を見つけてやることが出来なかった妹のマドレーヌ(一生独身で過ごした)には預金その他の多額の財産を、それぞれ遺産として残した。生きて行くのに困らない資産のはずだったが、放蕩息子アントワーヌのためにジリジリと可処分所得の窮乏を来たし、やがて(1932年4月)館は売り払わざるを得なくなる。】


1921.04.09航空隊を志願して兵役(2年間)に就く。第2航空連隊に配属(ストラスブール〔近郊のノイホフ、第2飛行大隊〕,陸軍,整備兵)。【この時期、フランス空軍はまだ存在していない。空軍省設置が 1928 年, 実戦部隊発足が 1933 年】
【多くの人が誤って言うように「徴兵」ではなく「志願」(フランスは国民皆兵制。平時に徴兵される確率はそんなに高くない。健康男子が志願すれば、採用される可能性はかなり高い。志願兵は職業軍人であり、満期の際、希望すれば延長できる)。徴兵されたのではどこに配属されるか判らないが、志願すれば配属される「兵種」を選択できる(親戚ヴィダル将軍の入れ知恵)。彼は「航空」を希望して「志願」した。もちろん一兵卒としての資格しか与えられず、操縦士にはなれない。

母親に月額約6000フランの仕送りを強要し、兵営外に部屋(月額2000フラン)を借りて休憩時間をそこで過ごす(士官でなければ考えられない破天荒なこと)。そもそも元貴族の家系に属する者が一兵卒になること自体が異例。このこと一つをとってみても、サンテックスはサンテグジュペリ一族の面汚しだった。】

   .06.21民間パイロット優遇策を悪用して裏口から航空士官になろうと画策、パイロット免許(民間)取得のため私費で訓練を受け始める。
 【ファーマン F40 F-CTE機。授業料2000フラン。教員のロベール・アエビには「伯爵様」と呼ばせる(共和国であるから、すでに貴族の称号は廃止されている)。兵役中の勝手な行動は違法。本来ならば、軍用機操縦士になるためには士官学校に入学して3年間の教育を受けねばならない。(反乱に加わることをおそれ、また、反乱軍に対する過酷な鎮圧命令に忠実に従うよう、戦車の車長と戦闘機・爆撃機の機長は単座小型機といえども将校*が原則。)

 * 近衛連隊ですら平民出身者兵が主力の日本では、戦車隊・航空隊とも通常の部隊編成で、搭乗員は下士官兵が主体。ドイツでも下士官兵の操縦士が比較的多いが、親衛隊と同じく思想調査が厳しかった。

 貴族の身分をたてに、兵役中飛行訓練受講の特例を黙認させた。射撃訓練等も免除させている。】

    .07.09民間パイロット資格を取得【操縦士増員のための特例措置により軍用機パイロット( = 士官)になる途が開かれる】
    .08. 第37航空連隊(モロッコ,ラバト)に実地研修生として転属。伍長に昇任
   .12.23軍パイロット資格を取得。【pilote de guerre = 軍用機操縦士】


1922.01. 軍パイロット資格を得たことにより、アボールにある士官学校へ(68人中67番目の成績で)入校。【上記特例による入校。正規士官とは別のコース】
    .01. 飛行操縦生(将校候補生)としてイストル(南仏)へ
    .秋とびきりの美人で皆の憧れの的だった ルイーズ・ド・ヴィルモラン(後に作家・詩人として世界的な名声を博し、2度の結婚と離婚・著名人との幅広く親密な交際で知られることとなる)との婚約を射とめ、周囲を仰天させる。
【結納に際しては、経済的な負担と、ヴィルモラン家から受けた屈辱に母親を曝すことになる *。】

* ヴィルモラン家への婚約申し入れをサンテックスから懇願された母マリーは、自分が婚約したときに貰った真珠のネックレスを、結納品として持参した。ヴィルモラン家は、「このように貧弱な品では娘への結納として不適当で、当家の格と釣り合わない」と、追加の結納を要求した。マリーは無理をしてそれに応えたが、婚約解消後も(彼女にとって大切な記念の品である)真珠は戻ってこなかった。

  .10.20少尉に。ブールジェ(パリ近郊)の 第34航空連隊に配属


1923.05.01ブールジェ飛行場で操縦失敗による墜落事故。全身打撲,重症。
【無資格でアンリオHD14型機を操縦。任務ではなく娯楽飛行。墜落時の機体操作が良好と認められて2週間の飛行禁止で済んだ。】
    .06.05航空連隊(陸軍)を除隊【将校であるから自動的に予備役登録 = 戦時には召集】
    .08. ルイーズ・ド・ヴィルモランとスイスのビエンヌ湖畔で密会。この頃から若禿が目立ち始める
    .09. ブロワン・タイル社(パリ、フォーブル・サン・トノレ56番地)に就職(1924年秋まで)。
   .10.11末妹ガブリエル、ピエール・ジロー・ダゲー(Pierre Giraud d'Agay)と結婚。
    .10. 11月1日に予定されていたルイーズとの結婚式を半年ほど延期される。
    .11. ルイーズから婚約破棄される。精神的打撃は大きく、10年ほど尾を引くことになる。
【後に「南方郵便機」をルイーズに捧げようとした(つまり、巻頭に献辞を置くとルイーズに申し出た)。ただし、ポーズだけ。Le Petit Prince を含めて、作品を女性に捧げたことは一度もない。また、ルイーズの方は彼にまったく気がなく、彼女に贈った「南方郵便機」原稿(挿絵案付き)は、あっさり手放されてしまった。】


1924.秋 ソーレ自動車会社に就職(1926年冬まで)。


1925.03.07ルイーズ・ド・ヴィルモラン(22歳)、母親メラニーからその恋人のひとりであるヘンリー・リー・ハント(アメリカ人,39歳)を奪い取って結婚。1925年4月、ラス・ベガスに移住(1929年まで)


1926.イヴォンヌ・ド・レトランジュ 公爵夫人(母親の従姉妹。サンテックスより12歳年上)のサロンに出入り。アンドレ・ジッド,ジャン・プレヴォー,ガストン・ガリマール等と知り合う。
    .04. 文芸誌「銀の船」に小説「飛行士」を発表(プレヴォーの紹介)。
    .06.23航空輸送ライセンス取得。
    . 遊覧飛行会社アエリエンヌ・フランセーズ社に就職。(他の操縦士の順番を押し退けてでも飛びたがる。)
    .10.14ディディエ・ドーラとの出会い。ラテコエール航空会社に就職(整備士見習いから出発。トゥールーズのモント・ドーラン飛行場)。ジャン・メルモーズ,アンリ・ギヨメと知り合う。
    . 初の郵便飛行(トゥールーズ〜カサブランカ線。ブレゲー14型機)。


1927.02.07カサブランカ〜ダカール線の習熟飛行中(ブレゲー機、操縦士:リゲル)サハラ砂漠に不時着。2日後、ギヨメに救出される。
    .02.24カサブランカ〜ダカール線郵便飛行に従事。
    .04. ラテコエール社【 Société des lignes Latécoère または Lignes Aeriennes Latécoère。“La Ligne” と単数・定冠詞付きの愛称で呼ばれた】所有機の旧式化と大西洋横断南アメリカ路線の不採算によって経営破綻、アエロポスタル社 Compagnie générale aéropostale に売却・吸収。
    .06.長姉マリー・マドレーヌ死去(結核)。
   .10.19中継基地キャップ・ジュビー(スペイン領西サハラ,Rio de Oro)所長に就任。(1年半)


1928.03. 一時休暇でフランスへ
    .09. ルイーズ、出産のためパリへ。(1929年2月長女ジェシーを出産)。
【「身重のルイーズが車から降りるところを偶然サンテックスが目撃。ショックを受け、声をかけられずに見送った」という話が伝わっているが、この時期は西サハラに在住の筈で、辻褄が合わない。一時帰国してパリにいたか、年月が間違っているかの可能性あり】
    .10.02 大統領令によりフランス空軍省設置【空軍省発足が1928年10月2日。軍としての実態を備えた発足は1933年4月のことになる。】


1929.03. フランスに帰国。「南方郵便機」原稿が奇縁でB伯爵夫人(ネリー・ドゥ・ヴォギュエ Nelly de Vogüé)と出会う(ヴィルモラン邸)。
    .04. ブレストの海軍兵学校で開かれた天測航行法の特別講座にアエロポスタル社から派遣、リオネル-マックス・シャサン海軍中尉(後に大将。サンテックス前線復帰・その他に深い関わりを持つことになる)の上級講義を受講(受講生11名)。理論では優秀だったが、実技は破滅的。器具を度々壊したり紛失したりし、水上機の離着水では水没寸前の失敗を数度犯す。上級免状を授与されなかった2人の内の一人はサンテックスだった(南方郵便機原稿の校正のため予習・復習をさぼり、いつも睡眠不足で講義も上の空だった)。
    .06. 南方郵便機」出版。
    . . サンテックス、ルイーズをレトランジュサロンに紹介(⇒ルイーズ、ガリマール社やその常連と知り合いになる。)
    .08. トゥールーズ〜カサブランカ線郵便飛行に従事。
   .10.12アエロポスタル・アルヘンティーナ社の支配人としてブエノスアイレスに赴任。


1930.04.07キャップ・ジュビーでの功績でレジオン・ドゥ・ヌール章(シュヴァリエ)受賞。【受賞のため一時帰国】
    .06.13アンリ・ギヨメの遭難と生還(6.20)。
    .09.未亡人コンスエロ・スンシン Consuelo Suncin との出会い・求婚。
【ただし本気ではない。この頃、連日のように取っ替え引っ替え若い女性を部屋に引っ張り込んでいた。飛行機に乗せて口説くのも、スケコマトニオのいつもの手。コンスエロの魅力に抗しきれず後日一緒に市役所まで行くが、結局は入籍を逃げ同棲状態を続ける。】


1931.01. フランスへ帰国。
    .03. アエロポスタル社破産・臨時管理運営。政治的な言動が批判を集め、ドーラと共に辞職に追い込まれる。
    .04.11母親の厳命でコンスエロと正式に結婚させられる(妹の嫁ぎ先アゲー館で挙式)。
   .5-12カサブランカ〜ポール・テティエンヌ線の郵便機操縦士として、コンスエロとともにカサブランカで暮らす。
    .05.30夜間飛行」出版。
    . レオン・ウェルトと知り合う。
    .12. 「夜間飛行」フェミナ賞 (Prix Fémina) 受賞。


1932. . パリ、シャナレイユ通り5番地に居住。
    .02. マルセイユ〜アルジェ間の水上機便操縦士。
    .07. サン・モーリス・ド・レマンス館売却。家具売立て。
    .08 カサブランカ〜ダカール線の郵便機操縦士
    . カーティス・ヒチコック、サンテックスと会食(パリ)
    . ユージン・レイナル、サンテックスと会う(パリ)
    . コンスエロ、大きな自動車事故を起こす。多額の賠償金(ニース)


1933.01. 水上飛行機テストパイロットとしてラテコエール Latécoère 航空機製造会社に就職。南仏各地に滞在。
【水上機便の操縦士であったこと(上記 1932.02. )がものをいったのであろうが、彼を水上機(ことに大型飛行艇)のテストパイロットに採用したのは、明らかな人選ミス。ブレストの海軍兵学校(上記 1929.04. の項参照)の例を引くまでもなく、サンテックスは、うねりがある海面での着水(ポーポイズ現象への予測対処)能力に欠けるところがあったと考えられる。この後、12月に惹き起こす水没事故は約束されたも同然。】
   .04.フランス空軍、独立軍種として発足【空軍省の設立は1928年10月】
   .08.30エールフランス社設立。(アエロポスタル、エール・ユニオン、ソシエテ・ジェネラル・ド・トランスポール・アエリアン、カンパニー・アンテルナシオナル・ド・ナビガシオン・アエリエンヌ、エール・オリアンの5社が合併。国営となるのは1945年。)
   .12.21水上飛行機(ラテコエール293型)試験飛行中に着水失敗(極めて初歩的なミス)による水没事故。溺死寸前で偶然脱出に成功し命拾い(サン・ラファエル湾)。解雇。
    . 香水「夜間飛行」(ゲラン社)発表。
    . リヨン市に売却されたサン・モリス館、食堂・礼拝堂等を残して青少年休暇施設に改築される。
    . レイナル&ヒチコック社創立。サンテックスと出版権の交渉


1934.04. エールフランス社に入社。宣伝部員として各地へ講演旅行。
    .07. セーヌ左岸のアパルトマンへ転居。
    .07.12サイゴン着。姉シモーヌ(インドシナ古文書局勤務)と再会。午後にはアンコールワット見物に水上機で飛び立ち、2度の不時着水事故。水上で一夜を明かす。(7.22 マルセイユに帰着。)
    . コンスエロ、再び大きな自動車事故を起こす(ディジョン)。
サンテックス、ネリーから借金(ディジョンまでの旅費すら持ち合わせがなかった。巨額の賠償金も必要)。ネリー、二人分の手作り弁当持参でディジョン駅まで同行(駅からパリへとんぼ返り)。この頃、サンテックス - ネリーの関係大きく進展。


1935.04.29モスクワ取材旅行(パリ・ソワール社特派員)。
    . 映画アンヌマリー脚本。主演女優アナベラ
    .06. コンスエロに対し一方的な別居宣言・転居。
    .11. 自家用シムーン機(F-ANRY*ネリーが買い与えた)で地中海一周講演旅行。Conty と Prévot が同行。
* Caudron 社 Simoun C.630(20機生産), 登録番号:n°7042.20, 登録日:1935年9月4日
【カサブランカ⇒アルジェ・チュニス⇒トリポリ⇒ベンガジ⇒カイロ⇒ダマスカス⇒ベイルート⇒イスタンブール⇒アテネ。アテネへはコンスエロを呼び寄せ。】
    .12.29パリ〜サイゴン間長距離飛行(賞金15万フラン)に出発。12月30日午前2時45分、リビア砂漠(カイロから200kmの地点)で遭難。1月2日ラクダ数頭をつれて移動中のベドウイン族男性に救われ奇跡の生還
砂丘に接触。紛うかたない墜落事故。奇跡的に無傷だったが、多くの人が言うような「不時着」ではない。ついでながら、リビア砂漠はサハラ砂漠の一部分。


1936.05. ドイツ旅行(飛行機)
    .06. ルーマニア旅行(飛行機)
    .07.17スペイン市民戦争勃発。
    .08.10スペイン内乱取材。(ラントラシジャン紙特派員。バルセロナ,レリダ)
    . . パリ、ヴォーバン広場15番地に居住。
    . . 2度目のシムーン機(F-ANXK *。またもネリーが出資)購入。
* Caudron 社 Simoun C.635(46機生産), 登録番号:n° 7088.15, 登録日:1936年9月4日
    .10. 映画「南方郵便機」企画打ち合わせのためロンドンおよびモガドール(モロッコ)へ。
【フランソワーズ・ジルー(17歳)の守護神を気取り、ホテルの部屋割りを強引に隣り合わせにする】
    .12. コンスエロ、離婚の件で弁護士を訪ねたが、結局思いとどまる
    .12.08メルモーズ、南大西洋で消息を絶つ。
【サンテックスはパリに在住。夫婦で主催した夕食会(ネリーも同席)中に知らせを聞く】
    . . この年、Citadelle(城砦)の原稿を執筆し始める。


1937.04.11特派員として再度スペイン市民戦争を取材(パリ・ソワール紙特派員。7月まで。マドリード,バレンシア,前線へも)
    . . エールフランス航路開拓のため、カサブランカ〜トンブクトゥー〜バマコ〜ダカール〜カサブランカを飛ぶ。
    .07. ドイツ取材旅行(シムーン機)。ネリーを同伴。
フランクフルト近辺の飛行場に無許可着陸、スパイ容疑事件をひき起こす(逮捕。ネリーのコネで窮地を脱した)】


1938.01. 長距離賞金レース準備のためニューヨークへ
    .02.15ニューヨーク〜フェゴ島間長距離飛行に二機目のシムーン機(F-ANXK)で出発。翌朝、グァテマラ市アウローラ空港で離陸失敗(ガソリン過積による機体重量オーバー)・大破。重傷。【プレヴォー、これ以降サンテックス機への同乗を拒否】
グァテマラ市の病院に1箇月間の入院。【医師団は右腕切断の治療方針。偶然にもコンスエロはグァテマラへ向けて船で帰国途上。コンスエロの家族が彼女の到着まで結論を引き延ばし、コンスエロは切断同意のサインを拒絶。「マダム。両腕のある死体よりも、片腕のない生きた旦那さんの方が良いのではありませんか?」と医師は言ったという。手足切断は免れたが、重い後遺症残る。】
    .03.05コンスエロが付き添い看護。18日、療養のためエル・サルバドルへ(?)
    .03.28ニューヨークへ。ネリーが付き添い看護 。コンスエロはエル・サルバドルへ。
    .05. 療養のためアゲーへ
    . . 母親マリー、南仏カブリ村に住まいを移す。(小さな家は終の棲家となった。)


1939.01. レジオン・ド・ヌール章(オフィシエ)受賞(ギヨメが推薦)
    .02.16「人間の土地」(直訳:人間達の地球)Terre des Hommes 出版(Gallimard 社)【秋にフランスアカデミー小説大賞 (le grand prix du roman de l'Académie française ) を受ける
    . . 「風と砂と星と」(「人間の土地」米国版)出版(後に1939年米国出版賞を得る)
    .02. ドイツ旅行(ネリーと自動車で。18日帰国)
   .03.15ドイツ軍、チェコスロバキアに侵入
   .07.26アメリカ訪問【汽船ノルマンディー号】。リンドバーグ夫妻と知り合う。
チャールズ・A・リンドバーグとアン・モロー・リンドバーグ。チャールズは1902年生まれ。スピリット・オブ・セントルイス号での大西洋単独無着陸横断で名を挙げる前は、サンテックスと同じ郵便機操縦士であった。姓からするとユダヤ系の筈であるが、熱烈な親ナチ派でアメリカ参戦には反対。ドイツには二人の姉妹に産ませた計5人の隠し子があったことが、2003年になって発覚した。因みに、アンとの間には6人の子がある。アンはサンテックスの数多い愛人のひとりと見られている。】
    .08.26海路フランスへ帰国【20日出発】。
    .09.01ドイツ軍、ポーランドに侵攻
    .09.02イギリス・フランスがドイツに対して宣戦布告
    .09.04召集(予備士官であるから、戦時の召集は当然。階級は大尉。尚、招集された時点で現役復帰であるから、「予備」士官ではなく現役士官である。)。トゥールーズで教官を務める。【ネリーがディディエ・ドーラを動かした】
    .09.27ワルシャワ陥落
 ヒトラーは返す刀で西ヨーロッパ侵攻を計画していたが、この冬、ヨーロッパは記録破りの悪天候続きで空軍の動きが取れず、天候回復を待つ内に本格的な冬となった。「冬は機動戦に不利」なことをヒトラーは熟知しており、侵攻作戦は春まで延期された。イギリス・フランスも積極策を採らなかったため、宣戦布告しながら両軍がにらみ合うだけという「奇妙な戦争」「座り込み戦争」が出現した。
    .11. 前線配置を希望。例によってネリーに依頼し、コネを使いまくって実現。健康診断によって搭乗不適(墜落事故の後遺症)と結論が出ていたが、空軍大将ルネ・ダヴェからの圧力で健康問題は無視された。戦闘機は操縦能力なし(体躯も大きすぎた)。一旦発令が決まった爆撃機は本人が忌避。結局、偵察隊に発令。
    .11.03第II/33偵察飛行中隊入隊。オルコント(シャンパーニュ地方)へ。
正規経歴(規定の年齢で試験に合格して士官学校に入校し、正規のコースを終了して卒業・仕官)の士官ではないため、事実上指揮官資格のない39歳の搭乗員(隊長のガヴォワールは中尉、部下のサンテックスは大尉)。着任時すでに「老いぼれ」「老兵」呼ばわりされていた。
   .12. 旧式偵察機ポテーズ63型から、新鋭のブロック174への更新が進められた。【サンテックスがポテーズで出撃したことはない】


1940.04.09ドイツ軍、デンマーク・ノルウェーへ侵攻
   .05.10ドイツ軍、ベネルックス侵攻(「奇妙な戦争」「座り込み戦争」が終わり、戦闘が始まる)
 A 軍集団、国境防衛長城であるマジノ要塞線を迂回してフランスへ進撃。第II/33部隊のガヴォワール中尉、偵察飛行に飛び立ちアルデンヌの森を抜けて進撃する光の帯を発見。司令部に報告するも「車両部隊が通過できる地帯ではない」(フランス - ベネルックス国境には、崖や深い谷がある。アルデンヌ高地には森林・湿地も多い。一方ドイツ側は「フランス軍の夜間空襲はない」と予測。夜間も灯火管制を行わず進撃する計画を立てた)と信用されず。翌朝改めて撮影を行い、100輛もの戦車が写った写真を添えて報告しても尚、上層部は事態を把握できず対策を立てなかった。この後も、易々と爆撃機の進入を許して無抵抗で航空機や車両を失う無策を繰り返し、「据え物斬り」を許すのはフランス軍の体質と嘲られるまでになる。(個々のフランス軍戦闘機は奮戦したが、多勢に無勢。部隊単位での運用も有効な指揮が発揮されず、地上被害が多かった)
   .05.19ド・ゴール指揮の第4機甲師団(戦車約150輌)奮戦。【攻勢は28日のアベヴィルの戦いまで。他の機甲師団は早々に壊滅】
   .05.21英軍の戦車大隊(マチルダ歩兵戦車)による「アラスの戦い」
 二個師団による総力反撃の筈が、二個大隊になってしまった。しかも、フランス軍二個師団によってカンブレー方面での同時攻撃が行われるはずだったが、勝手に22日へ延期されてしまった。
 偵察情報もないままの手探り反撃であったが、ドイツ軍第7装甲師団戦車連隊は南へ遊離突出し、第5装甲師団はまだ北方に遅れていた。主力戦車不在の伸びきった横腹をアラスの南で奇襲する形になり、しかも、ドイツ軍対戦車砲がマチルダ戦車の装甲に無力であったため、急造の対戦車陣地は総崩れになった。突破成功するかに見えたが、急遽戻ってきたロンメルが指揮を執って陣地を再構築し、88mm 高射砲の水平射撃【高角砲は、弾込めのため水平にできる】で対抗。急降下爆撃隊の掩護も加わったため、半日で撃退されてしまった。
 22日にカンブレーへ進出したフランス軍は、アラス奇襲に懲りて厳重警戒中のドイツ空軍に発見され、急降下爆撃の餌食となった。
 敗退したものの、奇襲反撃に驚いたヒトラーが全装甲師団に停止命令と戦線整理を命じたため、連合軍がダンケルクから奇跡的な大撤退を成功させる時間的余裕を生む結果となる。
   .05.23アラス偵察飛行(飛行時間 1hr20min)で被弾【上述のように、戦闘はもう終息している。再反撃能力はまったく残っていないから、偵察の意味は殆どない】。やっとの事で、ヨタヨタとオルリー飛行場へ滑り込む。夜、パリのビストロ、シェ・ジョルジュで ネリー・友人の医師と3人で食事
   .05.27連合軍、ダンケルク海岸からの総撤退作戦
   .06.10イタリアがイギリス・フランスに宣戦布告
   .06.14ドイツ軍、パリ入城
   .06.18ド・ゴール、亡命政権樹立宣言
   .06.22独仏休戦
   .06.23II/33部隊敗走。満載輸送機を操縦してアルジェへ移動
    .07.01ヴィシー政権発足【海外県の軍隊は名目上ヴィシー政権に所属。指揮権実態は微妙な問題をはらんでいた】
    .07.31動員解除。帰国
    .08.01マルセイユ着。ネリー 出迎え。サンテックスはアゲーに。ネリーは近くのサン・ラファエルに滞在
   .11.27ギヨメ撃墜され死亡(地中海上空)
   .12.21リスボン出航。アメリカへ亡命(12月31日ニューヨーク着)。セントラルパーク地区のアパートに居住


1941.2〜3 ネリー、ニューヨークに滞在。
【アメリカ情報機関は、ドイツ占領地域と自由主義国家との間(通常ならば決死の亡命しかない)を苦もなく行き来するネリーに驚き、ドイツ側スパイまたは英独二重スパイ・英独仏三重スパイの嫌疑で監視を始めた】
    . . パメラ・トラヴァース(Pamela L. Travers。レイナルヒチコック社の大ベストセラー「メリー・ポピンズ」の著者)に逢う。
【1934年に出版されたメリー・ポピンズはいくつもの続編が追加出版された大ヒット作。彼女との面談、および「ヒットすれば金になる」実例を身近に見たことが、後に(クリスマス商戦用に童話仕立ての) Le Petit Prince を書く気になる伏線となったと考えられている。】
    .04. カリフォルニア短期訪問
   .06.22ドイツ軍、ソ連へ侵攻
【バルバロッサ作戦。本来は5月15日開始の予定。この遅れは致命的となる。初戦には大勝利を収めながら、短期間に休戦へ持ち込めなかったドイツ軍は、「冬将軍」の到来に機甲部隊の足は止まり、燃料も食料も冬服も補給されないという悲惨な敗退を喫した。】
   .8-11ジャン・ルノワールの誘いでカリフォルニア滞在。事故の後遺症が悪化、入院・手術。映画女優のアナベラが見舞いに日参。滞在中に「闘う操縦士」執筆
   .12.07真珠湾空襲。日米戦争始まる。
   .12.11ドイツ・イタリアが、アメリカに宣戦布告。アメリカ、ヨーロッパ戦線に参戦


1942.01.コンスエロ、ニューヨークへ。
   .02.20「アラスへの飛行」(「戦う操縦士」英訳版)ニューヨークで出版
    . .
この頃ネリーと不仲。【別の B夫人(ブラジル貴族の妻、ナダ・ド・ブラガンサ。後に自殺)と親密に。また、「透き通った肌」を持つ女優ナタリー・パレ (Natalie Paley。ナタリー・パーリィ。1908-1981。1908.12.5 パリ生まれ。没落貴族;父親はロシア皇帝アレクサンドル3世の弟)とは極めて濃密な数箇月間を共有】
    .03. シルビア・ハミルトン(ジャーナリスト。28歳)との出会い【日曜日 = 1, 8, 15, 22, 29 日、のいずれか】。即日愛人関係に
    .04.29ヴィザも持たずにカナダへ出国。ホテル・ウインザーにチェックイン。2日間滞在のつもりが、足止め(ヴィザがないためアメリカへ再入国できない)を喰らい、ニューヨークに帰り着くのは6月のことになる。シルビアとナタリーに頻繁に手紙を書く。
    .06.エリザベス・レイナル “The Little Prince” 執筆を勧める(程なく執筆開始、本文は10月脱稿。挿絵は遅れた)
    .11.08アメリカ軍北アフリカ上陸。これによりドイツが全フランスを占領体制に移管(11月11日)。ヴィシー政権、事実上の崩壊。
    .11. ド・ゴール指揮下の自由フランス軍、北アフリカにて空軍 Armée de l'Air を発足させる。
   .11.27「戦う操縦士」フランス本土で出版(ガリマール社)
    .11.29あらゆるフランス人への公開状 」(まずフランスなのだ)をラジオ放送、次いで新聞発表。
ジャック・マリタン(キリスト教哲学者,ド・ゴール派 )による弾劾状「時には裁かねばならぬ」をはじめ、囂々たる非難を誘発。立場が非常に悪化。(論争の渦中で引っ込みがつかなくなり、最前線へ行くしかなくなる。)


1943.03.15北アフリカの 2/33 部隊復帰許可の通知が届く。
   .04.06レイナル・ヒチコック社 The Little Prince 出版
   .04.20ニューヨークを出発。(5.4 アルジェ到着)
    .04. レイナル・ヒチコック社 Le Petit Prince 出版
   .05.04サンテックス、北アフリカ(オラン Oran, アルジェリア)に上陸。
   .05. 第2/33(旧 II/33)偵察飛行隊(ラグーア Laghouat 基地)に復帰。
【2/33部隊は、フランス空軍 Armée de l'Air(正式には 7 月から)所属である。フランス軍でありながらアメリカ軍から移譲された機体を使い、アメリカ軍に訓練され、アメリカ軍の指揮下にあるという変則的な状態にあった。自由フランス軍の影響力はその分小さかったため、ド・ゴール派から忌み嫌われていたサンテックスが潜り込む余地があった。着任したサンテックスは、昔顔見知りだった搭乗員仲間が隊長のガヴォワール大尉しかいないことに驚く(単座機の部隊となったため、偵察員や機銃員は不要)。戦死による消耗もあったが、それ以上に、機体性能の向上と戦術の変化により、老いぼれ操縦士の出番ではなくなっていたのである。単座機に関する限りサンテックスは、ヨーロッパ戦線指折りの年長操縦士であったし、ライトニング搭乗員の年齢制限(35歳。一説には30歳)をはるかに超えていた。】
    .06.25少佐に昇任
    .07.01自由フランス空軍 (FAFL) を解体、フランス空軍 Armée de l'Air【1942.11. 連合軍北アフリカ上陸後に創設され、ド・ゴールとジロー将軍配下にあった】に統合。ブスカ Buscat 将軍の麾下となる。
    .07.21チュニジアのマルサより初出撃。コート・ダジュール偵察。
    .08.01着陸失敗事故【ブレーキを作動させないという極めて初歩的なミス】により最新鋭偵察機を大破(使用不能・廃棄)させる。8月12日飛行停止(事実上の除隊)処分。
    .08.07 ネリー、アルジェ到着。
    .08.08 サンテックス、ラ・マルサ基地に立ち寄った後、(ニューヨークへ帰るはずの予定を無視・変更して)アルジェへ。(以後8箇月間、ペリシエ医師の家に寄宿)。
    .09.08イタリア、無条件降伏。
    .11. ネリー、ロンドンへ帰還。(最後の別れとなった)


1944.05.16第2/33偵察飛行中隊に再復帰#(サルジニア島アルゲーロ基地)。事故・失敗・規律違反を繰り返す
# 本当は第1/22部隊のB26爆撃機副操縦士として発令【以前にも爆撃隊へ発令されたことがあった(1939.12.02 の項参照)。政治的圧力なくしては復帰できるはずのない、「操縦士(特に単座機)不適格者」との烙印を押されていたものと思われる】。4月から給料の支払いも再開されているのに、本人があれこれ手を回して画策し、許可も出ないまま勝手に古巣である第2/33部隊に着任。第2/33部隊の方もそれを歓迎したので、うやむやのうちに推移した。彼が死んだときの正式の所属は第1/22部隊のまま
   .06.06連合軍ノルマンディー上陸開始。
   .07.17コルシカ島ボルゴ基地に移動。
   .07.31グルノーブル方面の偵察飛行に出撃。帰投せず
   .08.24パリ解放。ヴィシー政権崩壊。


1945.11.30ガリマール社 Le Petit Prince 1945年版 出版


1946. . コンスエロ、フランスに帰国。
1947. . コンスエロ、グラースに居を定める(1979年に死ぬまで住んだ)。
1948. . レイナル・ヒチコック社、ハーコート・ブレイス社に売却・吸収される。
  
1991. . サンモーリス・ド・レマンス村役場前の広場、サンテグジュペリ広場と改名。
2000.06.29リヨン・サトラス空港(リヨン近郊には複数の空港がある。旅客空港はサトラス地区にあるためこう呼ばれた)がリヨン・サンテグジュペリ空港と改名。
リヨンをはじめフランス各地で生誕100周年記念行事が大々的に繰り広げられた。
2003.09. F5B残骸引き上げ (2004.03.26 -,日本で連載記事によるスクープ報道。2004.04.07 フランス文化省、乗機確認の正式発表・全世界報道。)


 
鬼  籍
1904.03.14父親急死(41歳)
1917.07.10弟フランソワ François 死去(14歳。リューマチ熱)
1920.04.17 トリコー伯爵夫人死去
1927.06.03長姉マリーマドレーヌ Marie-Madeleine 死去(結核。29歳)
1936.12.07 メルモーズ Mermoz 南大西洋で行方不明
1940.11.27ギヨメ Guillaumet 地中海上空で撃墜され死亡
1944.07.31サンテックス死去(44歳)
1969.12.02ディディエ・ドーラ Didier Daurat 死去(89歳)
1969.12.26ルイーズ・ド・ヴィルモラン Louise de Vilmorin 死去(65歳)
1972.02.02母マリー Marie 死去(97歳)
1978. . 次姉シモーヌ Simone 死去(80歳。アントワーヌが当主であったサンテグジュペリ家断絶)
1979.05.28コンスエロ Consuelo 死去(74〜77歳。正確な年齢は不詳。website www.consuelo-de-saint-exupery.com によれば1901.4.10 生まれ。)
1986.08.06ダゲイ d'Agay 家に嫁いでいた妹ガブリエル Gabrielle 死去(83歳)。サンテックスの肉親はいなくなった。
2003.06.17 ネリー(B夫人) 死去(93歳)。

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