サンテグジュペリの最期


いまだ不明

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サンテックスの乗機残骸回収

 
 2004年4月7日夜9時の NHK テレビニュースで「サンテグジュペリの乗機が確認された」と報じられました。

 2003年10月にマルセイユ沖で引き上げられた P38 の製造番号から、サンテックスの乗機であることが確認されたというものです。「銃撃を受けた痕跡はない」とも報じられています。事故か自殺である可能性が極めて高くなったわけです。

 「2000年にマルセイユ沖で発見された」というのですから、Time 誌に報じられた機体のことと思われます。(これでハイヒェレ説は、ほぼ完全に潰え去りました。)
 「高速で垂直に墜落」し、「残骸は広い範囲に散乱」しているといいますから、機体の状態からでは、事故・自殺どちらとも判断できません。

 出撃当時、コルス岬のレーダーが内陸部へ進入するのを確認しているので、その後にエンジントラブルで引き返したか、偵察任務を終わって帰投の最終段階で墜落したか、いずれかの可能性が一番高いと考えられます。
 自殺するのに海まで引き返すのは考え難いですし、任務を終えて基地まであと少しという地点が自殺を敢行するタイミングとしてありそうなものかどうか、疑問が残ります。なんらかの「事故」が起きた可能性が高いと判断するべきではないでしょうか。

 
  産経新聞に掲載された横山三四郎さんの署名記事を読むことができました。2004年3月26日から4月3日にわたって連載された6部構成の特集です。(横山さんはサンテグジュペリ研究家で、 星の王子さまの作者 サンテグジュペリ(講談社火の鳥伝記文庫)の著書があります。)

 重要なヒントを示唆するキーワードがいくつか潜ませてあります。
「ターボチャージャー(過給器)が前後に押しつぶされひとかたまりになっている。」
「時速600キロ以上のスピードで、ほぼ垂直に墜落したと考えられる。」
「拾い集められた機体には、銃撃を受けた痕跡がないことも分かった。」

 海面に対して垂直に、かなりの速度で機首から突入していること,撃墜されたわけではないこと,等が述べられています。
 海面に激突した瞬間、サンテックスは不時着水の体勢をとっていなかった/とれなかったことが判ります。意識的にそうしたのなら自殺です。すでに意識を失っていたか、失速/錐揉み状態でコントロール不能であったのなら事故と見るべきでしょう。

 機首を海面に垂直に保ったままこのスピードで突入することは、サンテックスの操縦技量では不可能でしょう。
 飛行機の翼は、速度が上がるにつれて大きな浮力(機体軸方向に対して上方に働く力)が生じるように作られています。最初は海面に垂直に機体を保っていても、スピードが上がるに従って機首があがり、ついには宙返りをしてしまう* のです。
 急降下爆撃の経験がないサンテックスに、長時間機首を垂直に保って降下する技術があったとは考えられません。つまり、意識的な突入である可能性はきわめて低いと思われます。(もし「垂直」ではなく、飛行姿勢を保ったまま急角度で突入しているのであれば ―P38 の最高速度での突入ですから― 自殺の可能性がきわめて高いといわざるを得ません。)

*  旧日本海軍の特攻機は、幸運にも撃墜されずに目標に接近・突撃開始しても、目標をオーバーランして遠方海面に突入することがしばしばでした。十分な体当たりの訓練をしているわけではありませんから、空中分解すれすれの速度で急降下する経験がなく、機体の浮き上がりを予測制御できなかったのです。(そのため、出撃前の訓辞で、「突入速度を充分低く抑え」「目をつぶらない」よう注意されているほどです)
 神風(しんぷう)特別攻撃隊突入第一号とされている敷島隊の指揮官 関 行男 大尉は「戦闘機に乗れない分隊長」と呼ばれていました。戦闘機隊に配属されながら、艦上爆撃機**「彗星」の搭乗員出身だったからです。できれば彗星で隊員を訓練してから全機彗星で出撃するのが、機種の特性からいっても望ましかったのですが、機体領収も戦況もそれを待ってはくれず、急遽、不慣れな零戦の操縦を習って、爆装零戦(全部で5機。他に直援4機)を率いての出撃になりました。新婚ホヤホヤの彼が隊長に選ばれるについてはいろいろないきさつがありましたが、積極的な理由の一つは、急降下攻撃の専門家だったからです。ベテランの戦闘機乗りが、使い慣れた自分の愛機に重い(250kg)爆弾を吊って(つまり、機体は浮き難い状態で)突入するのでさえ命中は難しいと、上層部が心配して艦爆乗りを指揮官に当てるほど、過加速状態の飛行機はコントロールが難しいのです。

**  蛇足ながら、旧海軍では、急降下できる爆撃機を「爆撃機」、できない機種は「攻撃機」と区別していました。高々度からの水平爆撃が専門の一式「陸攻」は「(紀元2001年に制式登録された)陸上から発進する(=航空母艦への搭載や飛行甲板からの発着艦はできない)攻撃機」の略称です。これとは別に、もっぱら重い魚雷を抱いて超低空で水平爆撃を行うものを特に「雷撃機」と呼ぶこともありましたが、旧来の攻撃機(たとえば一式陸攻)が行う場合もあり、機種区分としては便宜的なものです。

 サンテックスが陸軍に入隊したのは、第一次世界大戦が終了した後です。あれこれ画策して操縦士になりますが、その航空機は「時代物」にすぎません。除隊後、郵便機操縦士として活躍しますが、その乗機はやはり旧式なもので、急降下をできる機種ではありません。近代的な第一線単座機を操縦するのは、P38 が初めてです。偵察機搭乗員ですから、急降下の訓練を受けたことはありません。第一、P38 は彼の操縦能力を超えており、離着陸と巡航飛行が精一杯と考えられます。

 水平飛行で最高 666 km/hr を出すP38 にとっては、時速 600 km 以上というのは、驚くほどのスピードではありません。上空から急降下してくれば、もっとスピードがついていてもおかしくないのです。
 【このスピードで水面に衝突すると、コンクリートの壁に衝突するのと変わりない衝撃を受けます。(水の粘弾性のせいです。その瞬間、水中には、まるで氷を割るような裂け目が走り、一瞬の後にはふつうの水に戻って亀裂はふさがってしまうはずです。) 飛行機は木っ端微塵に砕け散ることでしょう。】
 仮に、(急降下ではなく)上空でエンジン停止して墜落(自由落下)を開始し、時速 600 km に到達するまでに何秒かかるかを計算すると、空気抵抗が全くなければ、約17秒という答えが得られます。同じく空気抵抗が全くなければ、海面まで墜落するのに17秒かかる高度は、約 1.4 km です。空気抵抗の影響をどの程度に見積もるべきなのか、素人の私にははかりかねますが、実際の墜落時間は 20〜30 秒,高度は 2〜3 km 程度でしょうか。アクシデントによる墜落と見るに不自然な高度***や時間幅ではありません。

***  通常は 10km の高度を飛んだようです。エンジン不調で引き返していたのであれば、高度が下がっていても不思議ではありません。

 横山さんが指摘するように、一度は「偽物」として葬り去られた“謎の銀のブレスレット”が、再浮上してきました。同じ海域から水揚げされたことが本物であることの証明となるわけではありませんが、再検討することなしに「偽物」と放置するわけには行かなくなりました。自殺であればもちろんのこと、事故であっても、コンスエロの名が刻まれたブレスレットを彼が身につけていたことの意味は、きわめて大きなものです。


 

 
 記事について横山さんにお伺いした際に、「文藝春秋」2004年5月号(p. 88-90)にも寄稿なさっていることをお教え頂きました。内容は上記新聞記事と同様ですが、現在発売中の雑誌ですから、新聞を読み損ねた人にはお勧めです。
 機体特定に至った製造番号が、エンジンカウリングのジュラルミン板に刻まれたものだったこと,海面にほぼ垂直に「激突した*」こと、などが判ります。

*  この記述は重要です。高速で片方の主翼が水面に触れれば、機体は接水部分を中心に回転して胴体は機首から海面に叩きつけられますから、「垂直に激突した」ことは「垂直に落下してきた」ことを意味するとは限らないからです。もちろん、落下してきて、機首から垂直に突入した可能性も否定されませんが、その場合、左右の胴の損傷程度にひどい違いは起こらないはずです。下記 eブックランド 掲載の内容によれば、実際にまとまった大きさで回収されたものは左胴の部分だけで、主翼や操縦席・右胴は破片以外では全く見つかっていません。
 左胴が比較的よく保存されていたのなら、下の ICARE 96号掲載の絵のように右主翼端から接水して回転激突 した(右胴と主胴が緩衝器の役目を果たします)際、左胴が主胴(操縦席胴)からはずれて海面をバウンドし、遠方へ飛ばされた(衝突のエネルギーが減殺されます)可能性があります。逆に、左の翼端から斜めに着水して左翼付け根が最初に折れた(エネルギー減殺。一体だったものが分離すれば、運動エネルギーはそれぞれの質量にしたがって分配されます)のかもしれません。ブレスレットが本物なら、それが回収された付近が操縦席(主胴)の沈没地点の筈です。右胴破片,主胴破片,左胴が一直線上に並んでいるのなら、高速のまま不時着水を試みて失敗した可能性も否定できなくなりました。
 水上機のテスト飛行をしたことがある(着水失敗で水没)とはいえ、サンテックスの操縦技量でまともな不時着水ができるとは思われませんが、P38 の長いプロペラが水を引っ掻いて前部急ブレーキ状態になり、前方回転・転覆となることを避けるため、スピードを殺しながら機首上げ状態で尾部から着水するのが常法と思われます。機が傾いていたり、うねりがあったりすれば一枚尾翼のどちらかの端が先に接水して側方回転を起こしますから、主翼端で接水したのと同じような結果になります。ただしこの場合、主翼と側胴側面が海面にたたきつけられますから、「垂直に激突した」形にはなりません。右のプロペラが最初に接水すれば、接水点を中心とする右下方回転を起こして、機種から海面にたたきつけられ、左胴は比較的残りやすいでしょう。

 

 横山三四郎さんがこの件についてまとまった発表をなさっています。
 『赤いバラと銀の腕輪――『星の王子さま』の作者サンテグジュペリ搭乗機の奇跡の発見物語』です。
 電子書籍による自費出版サイトeブックランド に収録されています。このサイトはソニーのBBeBフォーマットを使った新しいサイトです。Windows 版のパソコンで LIBRIe LE for Windows をダウンロードして使えます(残念ながら、マッキントッシュでは動きません。)。

 

 1998年9月に銀のブレスレットを引き揚げてから、2000年5月サンテックス乗機の残骸を発見し、ダゲー一族その他の妨害に遭いながら2003年9月最終的に引き揚げるまでの苦闘の様子は、星の王子さまの眠る海 に詳しく述べられています。

 

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捏造だったハイヒェレ説

 
 2004年4月7日、サンテックス機の残骸が確認されたことが、フランス文化省によって発表されました。発見地点はマルセイユ沖。2000年に発見されていたといいますから、この記事の最後の部分でお知らせしていた機体のことであろうと思われます。
 これによって、以前紹介していた「ハイヒェレ説」は、全くの作り話であることが確定的になりました。

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サンテックスの最期(想像図)
 右翼から海中に突っ込むサンテックス機とそれを見守る“長鼻のドーラ”。 ハイヒェレ書簡から考えられる状況をもとに、画家が描いた想像図。
 ICARE 96号 の編集者による巻頭言と共に掲載された、サンテックス最期の瞬間。一時期、これが真相と信じられた。

 はじめに結論を述べておきます。2000年5月現在の時点で、「これがサンテグジュペリの最期の状況である」と信ずるに足る証拠・証言はひとつもありません。また、サンテグジュペリの搭乗機であると断定できる残骸や遺品も見つかっておりません。( ⇒ 2003年1月現在、事情はまったく同じです。)( ⇒ 上記のとおり2004年4月、乗機残骸が正式に確認発表されました。)

 1944年7月31日、サンテックス最後の偵察飛行に関して明確なのは以下の点に限られます。

 8時45分(または30分)コルシカ島のバスチャ・ボルゴ基地を離陸。その後、南仏の海岸線を過って内陸部へ進入して行くまでを、コルス岬のレーダーが監視確認。
 帰投予定時間が迫り、基地から呼びかけるも(サンテックス機のコールサイン:ドレスダウン6)応答なし。 午後、燃料切れの時間を過ぎても、連合軍側のどの基地にも帰投しなかった。
 この間、レーダーによって、内陸側から該当する海岸線へ進出するのを捕らえられた機影は、1機もない。
【 ⇒ マルセイユ沖で残骸が見つかったのですから、サンテックスは海岸線まで到達していたわけです。レーダーにとらえられなかった理由はふたつほど考えられます。1)レーダーの性能限界を超えていた。2)山襞を縫うようにして低空飛行で海岸線へ進出した。 1)は、当時のレーダー網の性能と当日の稼働状況が判れば結論が出るでしょう。2)は、確実な目撃証言がありません。】

 サンテグジュペリの最期については、断片的な目撃証言や憶測を元に、さまざまな説が飛び交っていました。有力であったドイツ軍の撃墜報告が、前日に撃ち墜されたアメリカ軍パイロット、メレディス少尉機であることが確実になるに及んで、これという程の候補がなく、謎のままになっていました。

 1980年12月、9年間も埋もれたまま(西ドイツの雑誌“Der Landser”725号,1972年発行,に掲載)になっていた報告書が再発見されるにおよんで、関係者は俄然色めき立ちました。フランスの定期路線パイロット組合が編集する雑誌“ICARE”(96号,1981年,サンテグジュペリ特集号の第6巻)が特集を組み、「これこそが真実」と世界中に知られるところとなったのです。
 日本では、サンケイ新聞パリ支局の塚本 一 氏が「サン=テグジュペリ最後の飛行」と題して雑誌中央公論(1981年9月号,p.296 - 305)にその内容を紹介し、多くの人の関心を惹きました。

 迫真の状況描写でしたが、この説は「そのまま信用するわけにはゆかない」話として、現在(1990年代)では否定的な判断を下されています。サンテックスファンとしては気になる話でしょうし、その後の否定的な推移をフォローできていない人も多いようですので、あらましを紹介します。

 双方の登場人物とその搭乗機、および、当日の会敵・戦闘経過のあらましは以下のとうりです。


 サンテグジュペリが所属するII/33偵察飛行隊(コールサイン:“ドレスダウン”)は、連合軍のフランス南部上陸をひかえて、コルシカ島に進出していました。主力所有機はロッキード社製 F4 および F5。これは、双発単座の重戦闘機ライトニング P38(エンジン出力 1,425 馬力×2,最高速度 666 km/h,武装:20 mm 機関砲1門、12.7 mm 機関銃 4 丁)を偵察機に改造したものです。この戦闘機はターボチャージャーを装備して高々度性能に優れた高速機で、高空からの急降下で加速しながら一撃を加えて下方に離脱する戦法を得意とし、爆撃機操縦士からは「双胴の悪魔」と恐れられていました(日本軍は「メザシ」と呼び、とりたてて優秀な戦闘機とは評価していなかったようです)。大平洋では、ガダルカナル島のヘンダーソン基地を離陸した16機の編隊が、長駆700km*を翔んでブーゲンビル島上空に連合艦隊司令長官・山本五十六を待ち伏せし、乗機の一式陸攻を屠ったことで有名です。低空での旋回性能に見るべきものはなく、格闘戦は苦手でしたので、戦闘機乗りからはあまり怖がられてはいません。ただし、山本機**の例から見ても判るように、鈍速な大型機を護衛する戦闘機にとっては厄介な相手でした。偵察機は機銃を廃し、撮影装置を搭載しています。すなわち、戦闘能力はありません。

*  直線距離にして 510km。隠密の待ち伏せ攻撃ですから、監視所上空を飛ぶわけには行かず、島影を避けて迂回飛行をしました。そのために航続距離ぎりぎりの作戦計画となり、急遽特製の増加燃料タンクを付けたものの、戦闘可能時間は15分間程度。山本機が30分間遅れるか早まるかすれば、成功しない賭けでした。
**  2機の一式陸攻を零式艦上戦闘機6機で護衛。相手がほんの数機でも、襲撃されれば守りきれないことは明白ですし、数日前に現地司令部員を乗せた大型機が十数機の P38 に襲われて、危うく難を逃れる事件があったばかりでした。現地の部隊はこの5倍程度の護衛機を付けるべきだと何度も主張していますが、司令長官本人がこれを退けてこの非常識な護衛編成となりました。

 サンテグジュペリは、途中で引き返した2回を含めて、全部で10回出撃しています。最初の一回が F4A 型,最後の一回、彼の棺となってしまったのが F5B 型である他は、すべて F5A に搭乗しました。【 ICARE Nº 96 p.186 の表くらいしかない時代に書きました。その後の調査で、機体番号と機の型番を照合した結果、殆どが F-5B 型であったらしいことが判りました。出撃回数も訂正です。
 当日受けた命令#は、グルノーブル/シャンベリー/アヌシーの写真偵察でした。この3つは南から北へほぼ等間隔に並んでおり、一番遠いアヌシーはジュネーヴの南約 30 kmに位置します。生まれ故郷のリヨンまではそこから西に約 100 km、少年時代の想い出の地サンモーリス・ド・レマンスはアヌシー/リヨンのほぼ中間にあります。
 サンテックスは軍律違反の常習者で、命令されたコースを外れて勝手なところへ「散歩」に出る前科がいくつかあります。最もひどい例としては、妹が住むアゲイの「偵察」写真##を撮って帰ったことがあります。(本来ならば軍法会議ものですが、撮影装置のスイッチを入れたまま、全コース命令とはまったく異なる場所の飛行を続け、偶然にもドイツ軍の重要基地の写真が大量に含まれていたため(1944.6.29)、命令されたコースを外れたことも、命令にない町の撮影を勝手に行なったことも、手柄に免じて不問に付されました。現像された写真には敵の機影も写っていましたが、本人はそれにはまったく気づいていなかったのです。迎撃されるか、高射砲で撃墜されるかして当然なところを無事で済んだのは、あまりに非常識なコースと高度であったため、敵と思われなかったためであろうと考えられています。)

#  本来のローテーションからいえば、サンテックスが飛ぶ番ではありませんでした。当日なぜ彼が出撃することになったかの事情ははっきりしておりません。周囲の人々は、彼を前線搭乗員から引退させることを決めており、この日を含む数日中に実行に移されるはずでした。彼があれこれ画策して搭乗割りの順番を変え(もしくは交替をして)、自ら望んで出撃したと信じられています。
##  たぶん、妹が住むダゲイの館を撮影しようとしたものと思われます。レジスタンス活動に協力的であったかどで館はナチスに破壊され、跡形もなかったからです。館を発見できなかったサンテックスは、子細に確認しようと写真撮影したに違いありません。

Fw190D に関する追記・訂正

 Fw 190D-9 が実戦配備されたのは1944年9月(18機。第54戦闘航空団第III飛行隊)のことです【公称出力は実現されず、運動性も悪かったため操縦士たちからは不評。機首が長いために付けられたあだ名、長っ鼻ドーラ Langenasen Dora(ブスという否定的な意味合いが込められる。鼻が伸びて醜くなったピノッキオが好例。サンテックスも上向きの高い鼻に特徴があった)はこの部隊の兵士たちから与えられたもので、連合軍側が付けた名ではありません】。従って、「この時期 D9 型は実戦配備されておらず」という記述は間違っておりません。また、その後南仏に配備された記録もありません。
 「水・メタノール混合液をエンジン内に噴射」は「水・メタノール混合液を『過給器(ターボチャージャー)』内に噴射」が正確な表現です。2段圧縮で 200℃前後になる吸気を冷却し、あわせてブースト圧を引き上げるのが目的です。
 V53 型は、武装の試験に供する原型試験機で、量産・実戦配備はされておりません。「先行量産型」というのは誤りでした。
 Fw 190D の戦闘偵察機型は存在していません。Fw 190E 偵察戦闘機型が企画されましたが、作製されずに終わりました。実在した偵察機としては、 Fw190A-3/U4:高高度偵察機型。20mm機関砲2挺・カメラ2台、および、Fw190A-5/U4:偵察機型。カメラ2台、がありました。また、事実上の Fw 190D(Focke-Wulf Flugzeugbau AG:フォッケ・ヴルフ航空設計;ハインリッヒ・フォッケ Heinrich Focke と ゲオルグ・ウルフ Georg Wulf の名を取った)後継機である Ta152(FW 190 シリーズの設計者であるクルト・タンク博士の名を取った)には、 Ta152E-1:写真偵察機型、および、Ta152E-2:高高度偵察機型、があります。「戦闘偵察機」に合致するものは、企画倒れに終わった Fw 190E か、実在した Fw190A-3/U4(D 型ではありません)のいずれかです。
 結論として、以下の記事中にある、ハイヒェレおよびヘーゲルの乗機に関する記述は、あり得ないものと断定できます。航空機の機種に関してだけでなく、内容そのものが「嘘」であることが決定的となったいま、機種に関する訂正そのものが無意味なのものになってしまいました。【記事本文は注記・訂正を入れず、そのままの形で残します。】
 Fw190-D は有名な高性能機ですが、敗戦末期に現れた新鋭機であるために書類が殆ど残っておらず、正確な諸元や製造記録はつい最近まで謎に包まれていました(製作会社に残る正規の仕様書ですら、全長が実際よりも 11cm 短かった!)。この記事を書いた段階では、ハイヒェレ書簡に機種その他の誤りがあることを判定すべき情報がないありさまでした。
 Landser 誌を参照することを第一義として、同誌を探し続けていたことも、この追記・訂正が遅れる原因のひとつになりました。いまや、同誌を入手する意味はなくなりましたから、ドイツ語での記述(つまり翻訳の誤りである可能性)にこだわらないことにします。Fw190-D に関する情報が整理されてきたので、やっとこの追記を作製することが出来る状況になりました。
 訂正が遅れ、読者の方々にはご迷惑をおかけしました。とりわけ航空ファンの方は、この追記をお読みの上、下記記事を再読いただきたいと存じます。  (2007年8月26日 追記)

 一方の主役はロベルト・ハイヒェレ(Robert Heichele)見習い士官*といいます。所属する部隊はローヌ河下流にあるオランジュ基地に進出しており、彼はヘーゲル(Högel)伍長と編隊を組んで連日マルセイユからイタリア国境までの海岸線の警戒偵察に従事していました。二人の乗機はフォッケヴルフ190。ふたりが全くの同型機を使用していたかどうか判然としませんが、少なくともハイヒェレの乗機はFw190 D9 でした。愛称“ドーラ”、それまでの空冷エンジンを強力な水冷エンジンに換装したために前部が異様に長くなり、「長鼻」と通称される高速戦闘機の偵察機型です。ただし、この時期 D9 型は実戦配備されておらず**、このドーラは(彼の話が本当であるとするならば)試験配備機であったと考えられます。

*  見習い士官:帝国海軍(以下旧日本海軍)には「実習士官」という職務の呼び方がありました。新しく不案内な分野へ配属されるに際して、知識や実技を習得するために、実戦部隊や工場・大学等へ一時的に配属・派遣される士官(多くの場合、任官したばかりの少尉)をこう呼びました。一時的な職務の状態をを表すもので、階級・身分の正式呼称ではありません。旧日本陸軍では「見習い士官」と呼んだようです。
 ハイヒェレもこのような習熟訓練の最終仕上げとして、実戦搭乗していたものと思われます。

**  実戦配備された先行量産型は V 53 型。ヘーゲル伍長はこちらに乗っていた可能性もあります。ただし、これは正真正銘の戦闘機です。
 D9 と v 53 が編隊を組んだのなら、v 53 は護衛戦闘機ということになります。いかに同性能の高速機とはいえ、迎撃覚悟の強行偵察でない限り護衛付きの偵察は考えられません。一方、複数の同型偵察機が編隊を組むというのも常識外れです。
 考えられるケースはふたつあるのではないでしょうか。
 一つは、ベテランのヘーゲル伍長に付き添われて、ハイヒェレ見習い士官が訓練飛行の実戦教程に従事していたといううものです。この場合、2機共に偵察機、つまり D9 のはずです。
 二つ目の可能性は、D9 の実戦試験飛行を戦闘機が護衛していた可能性です。(前日、メレディス少尉機を撃墜したのは、偵察機を護衛していた戦闘機フォッケヴルフ、つまり Fw 190 v53、だという説もあります。) 偵察隊が戦闘機を持つことはありませんから、ヘーゲル伍長とハイヒェレ見習い士官は異なる部隊の所属ということになります。(新型機の実戦試験飛行はベテランパイロットの役目です。占領地とはいえ、本国から遠く離れた前線で、戦闘資格も持たない見習い士官が担当することは考え難いので、二つ目の可能性はほとんどありません。)

 このヨーロッパ戦線最強・最高速(最高速度:低空で580 km/h,高空で686 km/h)の新型戦闘偵察機の存在は、まだ連合軍に知られていませんでした。1,750 馬力のエンジンを搭載しており、これだけでも充分強力ですが、水・メタノール混合液をエンジン内に噴射することによって、一時的に2,240 馬力の出力を得ることができるドイツ空軍自慢の秘密兵器でした。量産機は機関砲2門と機銃2丁を備えますが、試験機は2門だけだった筈です。
 ハイヒェレは戦闘資格を持っていませんが、防御戦闘は認められています。7月24日、ハイヒェレとヘーゲルの2機はいつもの偵察飛行の途中、18機ものイギリス空軍主力戦闘機スピットファイアに包囲されてしまいます。機体の性能からいって格下相手とはいえ、こちらは偵察隊、向うは殺しのプロの戦闘機隊。18対2では絶体絶命の状況でしたが、1機を撃墜して血路を開き、無事帰還しています。このことからも、ドーラの性能のすばらしさと、ハイヒェレ/ヘーゲル組の戦闘技量が並々ならぬものであることが見て取れます。
 ハイヒェレは8月半ば、南フランスで戦死しました。それに先立ち、折からノルマンジー戦線で負傷入院中のヴィルヘルム・マンツ中尉に宛てて、8月1日付けの手紙を書いています。手紙が届いたのは9月半ばのことでした。手紙の中でハイヒェレは、7月31日、南フランスのキャステランヌ上空で P38 の襲撃を受け、逆襲・撃墜したと述べています。日時・地点・機種・航路等、サンテックスにぴったりと符合するのです。要約すると以下のような出来ごとがあったことになります。


 7月31日11時2分、ハイヒェレ/ヘーゲル編隊はオランジュ基地を離陸して偵察飛行に出撃。いつものとおり南仏海岸に沿って内陸側を東へ飛び、何ごともなく予定の航路を終えてグラース北方でUターン、帰路についた。
 Uターン後まもなく、キャステランヌ附近で上空に P38 が南下してくるのを視認。単機、高度差1000メートル。偵察機と思われる。
 11時56分、そのまま直交する形で行き過ぎようとしたところ、思いがけないことにそのライトニングは2機めがけて急降下を仕掛けてきた。水・メタノール噴入による瞬間加速機能を生かして離脱旋回し、ライトニングの背後に回り込む。追撃戦となり、3連射めに命中弾を与えた。
 ライトニングは白い煙を引きながら海岸線をこえて低空で沖に逃れようとした。追尾したところ、右エンジンから炎を噴いて、右翼が海面に接触。数回回転の後、水没。12時5分,サンラファエル南約10キロ。(註:サンラファエルはアゲイの西隣にある)


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サンテックスとハイヒェレの軌跡
 ハイヒェレ書簡をもとに両者の当日の航跡を地図の上に再現した図。南下する黒い航跡がサンテックス。オランジュを発進して南東に進み、マルセイユ東で北東に変針、直進後グラース北方でUターンする赤く太い航跡がハイヒェレ/ヘーゲル編隊。(ICARE 96号)

 イカール特集号には、ハイヒェレの手紙のフランス語訳と、同じくフランス語に訳した「戦闘報告書」スタイルの文書が掲載されています。これが公式のものであるか否かは、極めて重要な意味を持つのです。  娯楽映画の軍隊とはちがって、近代国家の国軍は非常に官僚的な運営がなされています。それでなくては大きな軍事機構はうまく動かせないのです。
 任務を終えて帰投した搭乗員は、必ず指揮官に報告します。指揮官は報告書を作成して司令部に送ります。それとは別に、機体を受け取った整備員も、弾薬,ガソリン,水・メタノール混液,冷却液,潤滑油等の残量をチェックして補充し、機体損傷の有無やエンジンの調子等を含めて整備日誌に記入し、定期的に報告書を作ります。ガソリンはもちろんのこと、離陸後適当な場所の上空で試射を行っていますから、戦闘の有無に関係なく機銃弾も必ず補充が必要なのです。補充分を報告しておかなければ、ガソリンも弾薬も補給が受けられません。
 もし機銃弾が異常に減っているのに戦闘報告がなければ、故意または誤って味方を攻撃し、それを隠しているのかも知れません。逆に、燃料や弾薬の消耗が少なすぎれば、戦闘報告は過大に誇張されている虞れがあります。報告書はいい加減ではすまされません。厳しいチェックがあるのです。
 ハイヒェレは3連射したことになっています。これは、試射などとは比較にならない弾薬消費です。当然、それと矛盾しない整備報告がなければなりません。もちろん、彼の戦闘報告も、即日(遅くとも翌日には)、管区軍司令部に上がっているはずです。

 長年謎だったサンテックスの最期の状況が一挙に解けたと思われたのに、これが否定的に判断されることになったのはなぜでしょう? 手紙に書かれている内容を、ドイツが「強く否定」しているのだそうです。つまり、公式の戦闘報告書はないということなのでしょう。とりもなおさず、そのような空中戦はなかったことになります。
 雑誌の記事と国家の言明とでは権威が違い過ぎます。「強く否定」というからには、部隊が潰走して報告書が失われ、その存在が確認できない、等ということではありません。もっと積極的に、「あり得ない」といっているわけですから、話の信憑性は一気に暗転してしまいます。(逆に、ドイツがこの公式戦闘報告書を認めれば、「これで決まり」と言ってよい詳細な内容です。)

 手紙の内容には、部外者にしては知り過ぎている点があるのだそうで、ハイヒェレの手紙が偽物*だとしたらその作者は誰なのか、手紙とは別のサンテックス撃墜劇に関する情報を握っているのではないか、と関係者は新たな関心を持っているのだそうです。(といわれてからもう随分年月が経っていますが . . . . 。)

*  紛失と称して原資料が公開されないのだそうです。ニセモノ騒ぎの行き着く先としてよくある話です。

 武装していない偵察機が他の航空機に突撃することはあり得ません。この手紙で一番奇妙な点です。もし本当だとしたら、サンテックスは一体なぜそのような急降下を行ったのでしょう?
 二つの可能性が指摘されています。まず第一に、悪戯説です。F5 はもともとは戦闘機、それも戦闘機相手の格闘戦よりは、他の航空機や地上の車両等への襲撃を得意とする攻撃型の戦闘機で、極めて特徴的な双胴型の機影をしています。偵察機も全く同じ概観ですから、これが急降下してくれば、狙われた方はパニックに陥って逃げまどうでしょう。サンテックスはこのようなモックチャージ(偽装攻撃)を仕掛けては楽しんでいたと、本人が漏らしていたらしいのです。本当かどうかは怪しいものですし、やったとしても、航空機相手ではなく、地上の部隊や車両である可能性が高いのですが、彼の性格からして、ありそうな話ではあります(当然軍律違反です)。サンテックスのドイツ軍に対する敵愾心はかなりのものでした。機銃が装備されていたら、本当に機銃掃射を実行していたかも知れません。
 モックチャージをしたのならば、その後は一目散に離脱した筈です。高空から、1000メートルの高度差を翔け降りてきたのです。海面まではまだ5500メートルもあります。その加速度を活かして離脱降下して行く機に、追い付くことは不可能と思われます。とっさに旋回上昇した後ですから、いかに長鼻ドーラと言えども、高速機の誉れ高い P38 は捕らえられないでしょう。第1の可能性は薄いと判断せざるを得ません。
 第2の可能性は、アゲイへの降下説です。先に述べたように、サンテックスは命令を無視して勝手な行動をとる常習者でした。アゲイは彼にとって懐かしい街です。可愛がっていた妹が住んでいます。コンスエロとの結婚式もあげました。愛しいB夫人と過ごした甘い日々もまだ昨日のことのようです。近くを通る度にアゲイを低空で周回していた可能性は、決して低いものではありません。サンテックスは注意散漫で、偵察機搭乗員でいられることが不思議なくらいでした。2機の敵機に気づかないままアゲイへ向かって降下するのは、あり得ないことではないのです。
 とはいえ、近付いてしまえば、逃げまどう2機に気づかないはずはありません。尾翼のハーケンクロイッツも鮮やかな2機編隊を後ろにのんびりと飛び続けて、撃墜されたとは考え難いのです。ハイヒェレが言うような急降下をしてきたのなら、逃げ切れた筈です。
 アゲイ上空をゆっくり周回しようと、速度を殺して緩降下していたのなら、追い付かれる可能性はありました。低空での格闘戦に向かないP38、しかも、サンテックスの操縦技量はからっきしでした。サンテックスはもともと事故の後遺症のため左腕が不自由なうえ、大きな体#を無理やり操縦席に詰め込んだ状態で、激しい機体運動を行なうには無理があります。F5B での出撃は初めてですが、これがサンテックスの操縦にどの程度影響したのかは判りません【 この記事は ICARE Nº 96 p.186 の表くらいしかない時代に書きました。その後の調査で、機体番号と機の型番を照合した結果、殆どが F-5B 型であったらしいことが判りました。】。いづれにせよ、ドーラにとっては赤子の手をひねるに等しかったことでしょう。
 それにしては、ハイヒェレはてこずっています。最初の1連射が逸れたのは旋回中の遠心力のせいで当然としても、そのあとの追撃で一度失敗しているのが腑に落ちません。しかもハイヒェレは、その銃撃によってサンテックスが降下逃亡を始めたと述べています。この空中戦、本当にあったのかどうか、少し首をかしげる描写です。

#  単座機搭乗員規格外。したがって、彼の体格からいってもII/33部隊の搭乗員であることは許されないはずだったのです。おまけに P38 操縦年齢制限もはるかにオーバーしていました。

 白昼、雲ひとつない快晴の青空で起きた6500メートルからの急降下をはじめ、3機入り乱れての空中戦がレーダーに補足されず、目撃もされていないことは、話の信憑性にはマイナスです。

 ヘーゲル伍長の消息に言及した資料が見当たらない##のはどうしたことでしょう。重要な証人ですから、もし生存していたならば論争は一気に片がつく筈です。 戦死してしまったのでしょうね。だとすれば、これも話の信憑性にはマイナスに働きます。

##  Landser 誌を入手しておりません。既に決着済みである可能性はあります。


 1993年に私がサンモーリス・ド・レマンスを訪れた際、住人から「1944年7月31日、サンテグジュペリが上空を通った」と聞きました。「上空を2度3度と旋回した後、あちらの方向(南)へ去った。非常に特徴のある機影*だった」というのです。私はフランス語の会話力がありませんから、フランス在住の友人が通訳をしてくれました。話をしてくれた男性の歳格好からして、本人の目撃談とは思われませんでしたから、それ以上の確認はしませんでした。旅行者相手のリップサービス#だったかも知れないからです。
 もしこれが村の住人の間で伝承されている実話だったとしたら、サンテックスは偵察任務を遂行して帰途に就いたことになります。(サンモーリス・ド・レマンスはアヌシーの更に先に位置します)。 海岸までの残り時間は1時間程**でしょうか。往路に事件が起きていないのであれば、ハイヒェレ書簡に事実が含まれている可能性は高まります。

# やはり嘘でした。2004年8月、サン・モーリス・ド・レマンスを訪れてサンテグジュペリ一家のことに詳しい住人に真偽を確かめたところ「聞いたことがない」という返事が返ってきました。リヨン・サンテグジュペリセンターのリケルミ氏からも「初耳だ」という返事を貰いました。「1944年7月31日、サンテグジュペリが上空を通った」という事実はなかったと断定して良いと判断されます。

*  双胴機は極めて稀です
**  リヨンへの迂回は行っていません。目撃談がありませんし、この重要都市にはドイツ軍が張り付き、周辺には飛行場や高射砲陣地がありました。なによりも、リヨンもサンテックスも、お互いに相手のことを大事に思ってはいなかったので、サンテックスには訪れるべき動機がないのです。

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 サンテックス乗機の残骸や遺品が地中海海底から見つかったという話は後を絶ちません。彼とコンスエロやレイナルヒチコック社の名前と所在地が彫られた銀のブレスレットが、漁網にかかったと騒がれたのは1998年のこと。「彼がそんな腕輪を持っているのは誰も見たことがない」と否定的に扱われています。(ブレスレットの状態や発見状況等、さまざまな観点から、「ほぼ偽物」と決着がついたようです。⇒ ダゲイ一族が仕組んだ嘘だったようです。2005年現在は、墜落時にサンテックスが持っていたであろうと見られています。)
【サンテックスの名前と血液型が刻まれた
“金”のブレスレットなら、1943年の別れの際にシルビア・ハミルトンから贈られています。経緯は不明ですが、後にコンスエロの手に渡り、彼女の死後はその遺邸であるグラース(フランス)の記念館に保管されているそうです。】

Time 記事:深い謎
 「またか」という思いが拭えませんが、F5B の残骸なるものがマルセイユ沖で見つかったと報道されています。英字週刊誌 Time(アジア版,香港で編集。2000年)6月12日号にその海中写真が掲載されました。表題は少し皮肉っぽく、“A Deep Mystery” つまり、サンテックスにまつわる謎が深いというだけでなく、今回の発見自体がまだ本物かどうか謎であることと、85メートルの深みから発見されたこととをかけた見出しになっています。
 別の新聞で報道されているところによれば、今回発見された車輪部分は「J型」と呼ばれる改良型で、これを着けて地中海で行方不明になったのはサンテックスを含めて4機。そのうち3機は既に発見されているのだから、今回の P38 型機 は残るサンテックス機に間違いないと主張されているとか。文化庁による正式調査が予定されているそうです。
 この種の報道に対しては眉に唾つけて聴く癖がついてしまった者は、ヒネクレモノということになるのでしょうか。因みに、ハイヒェレ説での撃墜地点サンラファエルとマルセイユは直線距離にして約100km、海流に流されるためには岬をぐるりと回って行かねばなりません。その岬には、2000m以上の深海に向けて急激な傾斜が迫っています。仮に浅瀬を辿って流されたとしても、まとまった形をとどめることは不可能でしょう。今回の発見物がサンテックス機であるならば、ハイヒェレ説は極めて苦しい立場になります。

【本物でした。星の王子さまの眠る海に引き揚げまでの苦闘の様子が描かれています。】

【フランス語ですが、Luc Vanrell 氏の Affaire St-Exとその中にあるGalerie P-38 Saint-Ex が、鮮明な画像でとても参考になります。】

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サンテックスの出撃回数

乗機の呼称について

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