憶 測 諸 説

サンテックスの最期

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真 相 、未 だ 不 明

 1944年7月31日、サンテックスは「未帰還」つまり“行方不明”になってしまいました。屍体・遺骸は未発見ですが、機体の潰れかたから見て彼はその日に死亡した(つまり、墜落即死または死亡が原因で墜落)であろうと考えて良いと思われます。
 その最期については、誤報・詐報が入り乱れ、現れては消え、その度毎に振り回される者を「またか」とウンザリさせる事態の繰り返しでした。今回のリッペルト説も、今までの経緯を知るものにとっては「撃墜? 今頃告白? そんな筈ないだろ!」という反応しか起こらないのです。
 案の定、リッペルト説は極めて怪しげなものでしかなく、まだ未確定とはいうものの、いずれ消えて行く偽説であろうと思われます。サンテクス最期の真相は「いまだ不明」のままなのです。

時代背景と諸事情

 スペイン市民戦争
 1936.07.16 - 1939.04.01。政権奪取を繰り返したスペインの左派と右派の争いが、遂には内戦へと発展してしまいました。人民戦線政府(左派)にソ連・メキシコが、フランコ将軍に代表される右派反乱軍にドイツ・イタリア・ローマ教皇庁等が後ろ楯となって、国際的な代理戦争へと発展し、後に「第二次世界大戦の予行演習」と称される、新兵器・作戦・戦術の実験場となりました。ドイツ空軍(名目上義勇軍のコンドル軍団;1936 - 1939)は空中戦闘戦法を研究し、ケッテ(3機編隊)を基本単位とする従来の戦法を改め、ロッテ(2機編隊)による編隊戦闘に移行します。【2機編隊の考えは、第一次世界大戦当時からありました。凧のような布貼り複葉機では一撃離脱は無理で、入り乱れた一騎打ちの格闘戦の方が向いていたのです。航空機の性能が上がって、充分な速度が得られるようになると、2機編隊による一撃離脱法は非常に有効で、後に、世界中で採用される戦法となりました。】
 サンテックスは契約特派員として、二度にわたってスペインに滞在し、記事を送ります。(一部は「人間の土地」に再録されました。)

 社会主義(全体主義)の台頭
 第一次世界大戦後のヨーロッパは、政治体制とそれを支える思想・理論が不安定化・流動化の渦中にありました。その中にあって、とりわけ世界大戦の再来に重大な役割を果たすキーワードが、国家社会主義あるいはファシズムと呼ばれる全体主義です。一見奇妙に思えるのですが、右翼のファシズムと左翼の共産主義とは、両者共に「社会主義」を標榜します。個人主義/自由主義と対立する社会構成法を採るからです。【サンテックスは後者の立場に与し、全体主義であるドイツやソ連が嫌いでした。】
 ふたつの「社会主義」は、新しい思想潮流として、力強いうねりを持って世界中を席巻しつつあったことは、知っておかねばなりません *。特に、第一次世界大戦後ひどく衰退し、世界恐慌の波を被って破滅に瀕したドイツ社会をめざましい立ち直りに導いたヒトラーの成功を見せつけられては、ファシズムが大きな力を得るのは当然の成り行きでしょう。
*  「歴史は勝者がつくる」という言葉がありますが、現在我々が漬っている潮流は誇張され、それと対立 する/した 流れは矮小化される傾向があります。しかし、過去に起こったさまざまな事態を正確に捉えるためには、その時々の「流れ」を理解しておくことが必要です。その上で、現在の視点からする冷徹な批判・判断が為されるべきなのです。
 サンテックスの友人であった、メルモーズ(フランス)やリンドバーグ(アメリカ)等も、熱烈な全体主義者で、ヒトラーを崇拝していました。フランスにもアメリカにもファシストはおり、無視できない勢力を形成していたのです。

 第二次世界大戦
  ヒトラーの野望:ナチス・ドイツのフランス侵攻
 1939年9月1日にポーランドへ侵攻して成功したドイツ軍は、雪解けを待ちつつ準備を進め、1940年5月10日にオランダ・ベルギー・ルクセンブルグに電撃侵攻、5月17日以降に北フランスを席捲しました。車両の通過は不可能と信じられていたアルデンヌの森を抜けて(12日夜)フランスの平原に進出した機甲師団(A軍集団)が、19日には大西洋岸に達します。一方で、歩兵部隊と離れてしまった機甲師団(の一部)は、遅れている歩兵部隊を待つために、交通の要衝アラス直前で進撃を休止します(5月20日)。この機を捕らえて連合軍は反撃を試み、イギリスのマチルダ戦車は善戦しましたが、結局は敗退。敗走する英仏軍はダンケルクへ追い詰められました。【この「アラスの戦い」でサンテックスも偵察に出撃(5月22日)。そのときの様子を描いた著書「アラスへの飛行」(戦う操縦士)は、アメリカでベストセラーとなりました。】

  フランスの戦い Battle of France の終点:ダンケルク
 フランス侵攻は、ヒトラーの思惑以上の大勝利となりました。イギリス【フランス海軍は動かなかった】は、5月24日から6月4日の間、輸送船の他に小型艇、駆逐艦、民間船などすべてを動員した史上最大の撤退作戦を敢行します。イギリスの大陸派遣軍とフランス軍、あわせて約35万人【カレーで包囲されていたイギリス軍部隊は、ドイツ軍を引きつけておくための捨て石とされた】は、装備全てを棄てて薄氷の脱出を行うことになりました。この、大量の兵器を失うという物質的被害は反攻時期を遅れさせる原因となった一方、訓練済みの人員を大量に救出できたことは、その後の反攻を可能ならしめる大成功の撤退作戦でした。
 ダンケルク撤退以後、残ったフランス軍は雪崩を打つように崩壊が進み、ドイツ軍は6月14日、パリに無血入城します。

  ペタンのヴィシー政権とド・ゴールの亡命政権
 フランスは 1940.06.21 に講和(降伏)を申し込み、翌22日に受諾されました。北部と西海岸線の県はドイツに、イタリア国境に接する県はイタリアに、それぞれ占領され、ペタン Philippe Pétain のヴィシー Vichy 政権は、残るフランス中・南部を対独協力的に統括することになりました(ユダヤ人狩りも行っています)。
 ヴィシー政権をよしとせず、海外に逃れ、あるいは植民地に立て籠もって、ドイツとの戦いを継続しようとする人々もいました。亡命自由フランス政権 Comité Français de Libération Nationale(CFLN, ド・ゴール Charles de Gaulle/ロンドンとジロー Henri Giraud /アルジェ)がそれです。フランス国内に残った人々は(行動するにせよ心情的応援にとどまるにせよ)、ヴィシー派(事実上の親ドイツ派)と、もっと積極的な親ドイツ派(対独協力派, コラボ collaboration。上欄に述べたように、フランスといえども極右のファシストは決して少なくなかったのです)および、ドイツに抵抗するレジスタンス(Resistance。マキ maquis はその一員)に大別されます。
 【コラボとレジスタンスの間の憎しみは極めて激しく、ドイツ支配下でのレジスタンス派に対する残忍な弾圧・掃討と、ドイツ敗走後に起きたコラボに対する凄惨なリンチ(多くは撲殺)の原因となりました。この激しい憎悪の渦を、サンテックスは(北米での主張・言動から察する限り)、現実の問題として認識できていなかったと思われます。そして、サンテックスも(自身の、筋の通らない言動のために)コラボ呼ばわりされていたことも、知っておかねばなりません。当然、ド・ゴール派から彼に向けられた憎しみは、極めて厳しいものがありました。】

  バルバロッサ作戦(1941年6月22日 - 12月)
 1940年夏のバトル・オブ・ブリテン(航空戦)に敗退してイギリス本土への上陸は失敗し、西部戦線は膠着状態に入りました。そもそもドイツ航空艦隊は、陸上部隊と協力して戦いを進めるよう構築されており、航空機の航続距離は短く、単独での侵攻作戦には向いていなかったのです。ドーバー海峡(カレー/ドーヴァー間 40 km。カレー/ロンドン間は 150 km)でさえ障壁となり、戦闘機はイギリス上空に30分ほどしかとどまっていられないほどでした。
 手詰まりの焦りは、判断力を狂わせます。ヒトラー乱心、と言ってよいでしょう。二正面作戦の危険性を説く多くの反対論を押し切って、ソ連への侵攻を命じました。大兵力を集中しての電撃作戦で初戦こそ勝利を収めましたが、やがて戦線は膠着し、冬将軍の到来と共に散々な結果になりました。東部戦線も退勢に傾き、膠着対峙を維持するのがやっと(すなわち、主導権をソ連に握られた守勢)の状態に陥ってしまったのです。

  ヒトラーの大誤算:太平洋戦争勃発
 1941.12.07(ベルリン時間)、日本軍がマレー半島に上陸し、更にハワイのパールハーバーや、フィリピンのクラークフィールドとイバの両基地を空襲しました。この「騙し討ち*」は、ヨーロッパの惨状に冷淡であったアメリカ国民の敵愾心に火を着け、一気に参戦へと突き進ませてしまったのです。

*  「宣戦布告」を開戦(パールハーバー空襲開始)30分前にする予定であったとされるが、正確ではない。野村吉三郎駐米大使及び来栖三郎特命全権大使、二頭立ての日米交渉は継続中。交渉打ち切りの通告を行った時点で、「事実上の」戦争状態に突入と見なされる【狭義の「開戦通告」(=宣戦)ではない】。
 12月8日02:15(以下、時刻は全て日本時間 )コタバル(マレー半島。歩第23旅団)上陸開始【つまり、ワシントンで「予定時刻」通りに交渉打ち切り通告をしていても、それ以前にイギリスとの戦闘を開始している】。英軍の反撃により揚陸を一旦中断。03:19 パールハーバー空襲開始。04:10 シンゴラ(マレー半島。第5師団)上陸開始。04:20 ハル国務長官に最後通牒(交渉打ち切り通告)を手交。【既に「騙し討ち」を知っていた国務長官は受け取りを拒絶。「これほど卑劣な交渉は経験したことがない」と両大使を面罵した。】
 8日 12:00、NHKが宣戦の詔勅(=狭義の宣戦)をラジオ放送(=布告)【ただし、電波の波長や言語からみて放送は国内向けで、関係各国に対する開戦通告としては問題が残る】。これは「 . . . . 合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ。」とあるとおり、アメリカ合衆国に対する宣戦で、イギリス・オランダに対しては遂に(日本側からの)開戦通告をしないままに終わった。

 ヒトラーは「アメリカは参戦できない」と読んでいました。あるいは、「アメリカが参戦する前に西部戦線を勝利終結できる」と希望的な予測をしていたのです。読みは当たり、英国兵士がドーバー海峡へ叩き落とされる事態になったにもかかわらず、アメリカ国民は参戦を肯んじませんでした。
 ヒトラーが「黄色いサル」に期待したのは、ソ連と戦端を開き、その戦力を東に引きつけてくれることでした(その通りにしてくれていれば、バルバロッサ作戦の様相は違うものになっていたかも知れません)。どんなにバカなサルだって、アメリカ相手の戦争などするはずはない。ところが . . . 。
 当然、アメリカは日本に(そして、その同盟国であるドイツ・イタリアにも)宣戦布告します。三国同盟がある以上、ドイツは自動的にアメリカとの戦争に巻き込まれてしまったのです(12月11日対米宣戦布告)。物的にも人的にも小資源国であるドイツが、東西二正面に膠着戦線を抱えて打つ手がない状態。それに加えてアメリカの参戦とあっては、もはや、敗北が約束されたも同然でした。アメリカのモンロー主義を見切って、綱渡りを演じてきたヒトラーにとっては、想定外の大誤算だったのです。【逆に、チャーチルと蒋介石は大喜びしました。サンテックスも小躍りした一人です。】

  アメリカ参戦と連合軍アフリカ上陸
 アメリカの参戦によって、世界大戦の帰趨はもはや決したも同然で、その橋頭堡は北アフリカに選ばれました。
 さしも勇名を馳せた「砂漠の狐:ロンメル」もイギリスとの戦いに敗退して、既にリビアに撤収していました。追い打ちをかけるように、連合軍はモロッコとアルジェリアに上陸します(1942.11.08、トーチ作戦)。これによってドイツ軍は、半年後には完全に北アフリカから駆逐されてしまいました。
 連合軍は、シチリアそしてイタリア本土とコルシカ島へと攻め上って行きます。これはそのまま、サンテクスの足跡(= II/33 部隊の移動。アルジェリア ⇒ サルジニア ⇒ コルシカ)そのものなのです。

  フランス本国全土占領
 連合国軍が北アフリカに上陸したことによって、ドイツは1942年11月、フランス全土を占領し、ヴィシー政権は実質的に崩壊しました。今やドイツはヨーロッパのほぼ全域に軍隊を分散展開させ、ソ連と対峙する東部戦線・イギリスと対峙するドーバー海峡・弱体なイタリア軍を補佐してのイタリア半島・北アフリカからやって来る連合軍に対して地中海沿岸、と手に余る防衛ラインを維持しなければならなくなっていたのです。上空では、消耗と新機種への更新ができないままに、ドイツ空軍の弱体化が進行して行きました。
 航空戦闘団 JG 27(1939.10.01結成)の中に南フランス一帯の空域防衛を担う戦闘大隊 JGr Süd が結成されたのが 1942.02.02。それから派生する形で戦闘大隊 JGr 200 が結成されたのは 1944.06.06 のことでした。【リッペルトは、最初 JGr Süd に、その後 JGr 200 に所属します。】

  反 攻
 1944.06.06、有名なノルマンディー上陸(Operation Overlord)が敢行され、8月15日に実行されることになるドラグーン作戦も、着々と準備中でした。連合軍は、ヨーロッパ本土へ雪崩を打って攻め込み始めたのです。

 サンテックスの「鬱」に極めて重要な事態が、この時期決定的となっていることを指摘する人が殆ど居ないのはどうしたことでしょう。その「事件」とは、サンテックスの宿敵(といっても、相手はもう歯牙にもかけないでしょうが)、ド・ゴールの栄光に満ちた凱旋です。
 ド・ゴール は、ノルマンディー上陸の象徴でした。彼は 1944.06.14、4年ぶりに本土復帰の上陸を果たします。「この戦いは、フランスの戦いである。. . . . . フランス政府とフランス人の指導者の命令のもと、われわれの血と涙の重い雲の背後から、今こそ、フランスの偉大さという太陽が現れ出るのである!」と獅子吼する彼を、バイユーの町の人々は歓呼を持って取り囲みました。彼は、広場に設けられた壇上でマイクの前に進み出ると、空に向かって両手を大きく広げ、勝利のV字宣言を行います。それに応えて、人びとの間からフランス国歌 ラ・マルセイエーズ の大合唱がわき起こったのです。サンテクスにとって、これは絶望的な事態でした

 ヴィシー政権の首魁であったペタン将軍は、戦後、死刑を宣告されています(老齢を理由に無期禁固刑に減刑され、流刑地で病死)。他にも、多くの対独協力者に死刑が宣告されました。憎悪の嵐はフランス国内を吹き荒れ、戦争が終わって後も暫くは、人々の心を蹂躙し続けたのです。
【たとえば、フランスの恥として秘匿される傾向が顕著な蛮行のひとつが、ドイツ軍将校の現地妻となっていた婦人に対するリンチです。各地で、素裸に剥いて(場合によっては乳飲み子も抱かせて)市中を引き回し、衆人環視の中で頭髪や体毛を剃り落としたり、広場に曝したりした写真や映画が残っています。もしサンテックスが生きていたら、この様相を何と言い、どのような行動を取ったか、知りたいところです。これを食い止める力が彼にあったとは思えませんが、しかし、この「フランスの汚点」に立ち向かうためだけにでも、彼は死ぬべきではありませんでした。】

 サンテックス超略歴 【もう少し詳しいことは、サンテックス略歴をご覧下さい】
  青少年時代
 1900.06.29 リヨンで誕生。4歳足らずで父親と死別。母親の愛に包まれて、子供時代は幸福に過ごした。12歳のとき初めて飛行機に乗った経験が、以降の「操縦偏執」を刷り込んだと思われる。生徒・学生時代は不遇。
  兵役志願と成り上がり将校時代
 陸軍へ志願、ストラスブールの第2航空連隊に就役した(整備兵)。自費で民間パイロット免許を取得して、特例により航空士官(陸軍第34航空連隊・パリ郊外)となる。
 ルイーズ・ド・ヴィルモランとの婚約を射止める(彼女の気まぐれに過ぎなかった。挙式予定日を延期され、結局は婚約を破棄される。母親には、大きな経済的・心理的負担をかけた)。
 初めての航空機事故。満期除隊。
  郵便機操縦士時代
 数種の職業を経た後、ディディエ・ドーラと邂逅し郵便機操縦士となる。キャップ・ジュビーでの飛行場長、ブエノス・アイレスでの総支配人職等を歴任。アエロポスタル社破産により失職。
  就職浪人時代
 ラテコエール社テストパイロット・エールフランス社宣伝部員・新聞社契約特派員・等で生活費を稼ぐ。飛行艇のテスト飛行中に着水失敗で艇を海没させ、九死に一生を得た。賞金長距離飛行に2度挑戦し、二度とも墜落して自家用機を失う。2度目の墜落では生死をさ迷う大怪我を負い、後遺症が残る。
  第二次世界大戦勃発
 1939.09.01、ドイツ軍がポーランドへ侵攻。1939.12.04、サンテックス、現役復帰してオルコントの II/33 偵察飛行大隊へ赴任。
  参戦・召集:
 1940.05.22、アラスへの偵察飛行。6月23日、敗走・アルジェへ移動。7月31日、動員解除で帰国。
  亡命:アメリカ生活
 1940.12.21、アメリカへ亡命。自堕落な生活が戻ってくる。1941.12.07、日本軍がパールハーバーを襲撃し、アメリカが第二次世界大戦に参戦。1942.11.8、アメリカ軍北アフリカに上陸。1942.12.29、サンテクスは「あらゆるフランス人への公開状」を発表し、ド・ゴール派その他から袋だたきに遭う。
  前線再復帰:地中海へ
 1943.05.04、サンテクス、アルジェ着。6月25日、II/33 部隊へ復帰。7月21日、初出撃。8月1日、着陸失敗で飛行機を大破。8月12日、飛行停止処分。事実上の除隊処分であったが、1944.05.16、II/33 部隊へ再復帰(サルジニア島)。

 最後の日々
 1944.06.06、ノルマンディー上陸作戦が始まります。6月14日、ド・ゴールが栄光のフランス復帰(本土上陸)を果たしました。
 1944.07.17、II/33 部隊、コルシカ島へ進出。サンテックスの搭乗勤務を辞めさせるため、さまざまな方策が講じられます。サンテックスの精神状態は極めて不安定でした。
 7月31日、空中勤務は禁止されているのにグルノーブル方面への偵察飛行に出撃、未帰還となりました。

諸 説 略 解

 敵前逃亡;生存説
 「戦いが恐ろしくなって姿をくらましたのだ」という内容。北米のド・ゴール派を中心に、悪意を持って囁かれたものと思われますが、影響力が小さく、戦後はどんどん希薄となって、短命のうちに消え去りました。

 脱走/マキ合流・潜伏説;
 II/33 部隊での「貢献」に見切りをつけ、銃を手にしてフランス本土で戦闘に参加するためにマキに投じた、という英雄願望指向が強い希望的/崇拝的憶測。【ドイツに服従することを拒んで、さまざまな方策で抵抗した勢力をレジスタンスと呼びます。マキはあちこちに分散していたグループの総称で、かなり戦闘的でした。】

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サンテックス行方不明当時、南フランスの勢力情勢。    
右上がりの斜線部分が 1944.08.10 時点でのマキ支配地域。
都市部周辺の右下がりの斜線部はドイツ軍支配地。    
(Georg Pemler; Rout Nationale Nr.7, 1985, p.282)    

 ドイツ軍の敗走開始まで、マキあるいはレジスタンスの実力は大したものではありませんでしたが、ドイツ軍の支配が及ばない地域は結構広いものでした。サンテックスがこれらの地域内に不時着すれば、抗独勢力に合流することは、夢物語ではなかったのです。
 直接ではないにせよ、各地のマキと外地の反ドイツ勢力との連絡は取れていたので、時間経過と共にこの説は可能性が薄れて行きました。

 不時着;生存説
 「機器不調のため不時着した。アルプス山中・その他の発見困難な地域に生存中」で、「誰かにかくまわれている」または「マキにかくまわれている(上記潜伏説との違いは、意識的な着陸か余儀ない不時着か)」という説。時間経過と共に消滅して行きました。

 不時着/撃墜;ドイツ軍捕虜説
 生存説のひとつで、「ドイツ軍の捕虜になっている」というもの。終戦と共に消滅しました。

 墜落;死亡説。上記「不時着:生存説」の「死亡」版。「機器不調のため墜落・死亡した。」という説。墜落地点に関しては:
  アルプス山中・その他の陸上説(湖沼水没・湿地埋没を含む)。
 乗機残骸が確認されるまで、細々と存続しました。【無責任なブログでは「サハラ砂漠の何処か説」があったと言う人がいますが、そんなバカな話はありません。出発地ボルゴから見てヨーロッパとアフリカは北と南。彼がフランスへ進入するのはレーダーで確認されています。】
   海中説;「地中海の何処か」に沈んでいるという説。
 墜落原因としては「酸欠気絶説」「機器不調/操縦不能説」「故障/失速説」「誤操作/失速説」「うっかり説」その他いろいろ挙げられます。「撃墜説」と並んで常に可能性トップの位置にありました。

 撃墜/死亡説;
  ハイヒェレ説
 最も有名な撃墜説。「その当時知られていた事実」と矛盾する点が殆どなく、「サンテックス最期の真相」と信じられました。ドイツ政府機関がきっぱりと否定して急速に信用度が落ち、「手紙の原本を出せ」という要求に「失われた」と応えた段階で信じる人が殆ど居なくなりました。乗機残骸が引き揚げられて、墜落海域がまったく異なるため、息の根を止められました。
辻 邦生 説:そんなものは存在しない
 「まだこんなことを言う人がいるのか」とウンザリするのですが、内容を調べもせずに平気で孫引き/剽窃をする人が後を絶ちません。この際はっきりと「辻邦生説」なる“逃げ水虚説”の命脈を絶ちたいと思います。
 原報は、「『星の王子さま』とぼくたち」と題する北 杜夫と辻 邦生の対談*です。その対談中、北 杜夫(辻 邦生ではありません)が、「ハイヒェレ説」を、「サン=テグジュペリの死」の真相として紹介しているのです(p.28)。無責任にも、出典**を明らかにすることなく「調査の結果」と述べますから、(当時のサンテックスファンなら誰でも知っていた「ハイヒェレ説」の存在を知らなければ)「北 杜夫 が調査したのだ」と誤解する人が出てくる可能性はあります。原報をチェックしようともしない剽窃/孫引きによって、いつの間にか(おそらくは最初から)「辻邦生説」になってしまったのでしょう。「辻邦生説」はもとより、「北杜夫説」も存在しない(「ハイヒェレ説」を右から左へ紹介したに過ぎず、独自性はありません。紹介だけなら、注記の 塚本 一 氏が初めての日本語)のですが、「ハイヒェレ説」が捏造であったことが明らかとなった現在では、話題にする価値すらないものです。

* 「子どもの宇宙」, 中央公論社, 雑誌「海」臨時増刊, 第14巻第13号, pp. 10 - 41, 1982.12.20 発行。【対談が行われたのは、1982.9.6(この対談は、誤りとピント外れな独断が多く、探し出して読む程の価値があるわけではありません)。 この対談の時点で 辻 邦生 は「ハイヒェレ説」をまったく知らず、「星の王子さま」についても知識は殆どありません。】

** 言及する内容が限定されていることから推して、1981年の ICARE 96号ではなく、中央公論 1981年9月号に掲載された 塚本 一 氏の記事であろうと思われます。

  バカバカしい作り話
 サンテックスの最後をテーマにした創作童話(?)が出版されています。内容の突拍子のなさは、「ニューヨークの美術館で水星人と出会った」というのと大して変わりません。驚くべきことに、これを実話と勘違いする人が居るのです。信じられない話ですが、その程度の読解力しか持たない人が居ると言うことです。(現段階でリッペルト説を信奉するのも、同列の判断力しか持たない人です。)【下敷きとなった「ハイヒェレ説」が潰れたため、この「創作童話」も、実話の片鱗も含まないことがあからさまになりました。】
  その他諸々の撃墜説
 自称「目撃談」が現れては消え、その度毎に調査が行われたり、雑誌の特集が組まれたりしましたが、結局は泡沫説として、短命に終わっています。
  リッペルト説
 2008年3月、突如として出現後、急速に失墜しつつあります。支持する根拠が、現在のところひとつもありません。【上記「ハイヒェレ説」でも判るように、告白内容(ストーリー)が「現在知られている事実と矛盾しない」ことは、支持材料にはなりません。作り話を組み立てるのに、既に知られている事柄と矛盾するストーリーを展開するようなドジを踏むはずはないのですから。】

 自殺説
 自殺説を採る人は、思いの外多いのです。どちらかといえば、有力な研究者にその傾向があります。アメリカ亡命中(ことにその後半)の彼の立場は、決して多くの支持を集めたとは言えないものでした。レジスタンスとコラボの間に繰り広げられている、殺し合いの対立という現実を見ず、大同団結という絵空事を主張したのでは、笑いものにされるのは避けられません。いきり立つ彼の言動はますます鋭くなり、ついには勢い余って(自分が敵戦闘機と銃撃戦を演じたと言わんばかりの)嘘まで交える激越なものとなって、最前線に立ってみせるしかないところまで、自らを追い込んでしまいます。

 アメリカ滞在中も彼の精神状態は不安定でした【Le Petit Prince の執筆を提案されたのも、彼の「気晴らし」をはかるために友人達が勧めたものでした】。北アフリカに渡ってからも(除隊処分を受けて、復帰を必死に画策しているときには特に)、躁と鬱の波が激しくなって行きました。
 とりわけ、最後の2箇月間は最悪でした。病的に執着した操縦桿から彼を引き離そうとする「謀略」が、退っ引きならない所まで進行してきました。宿敵ド・ゴールの大成功は確定的で、もう、フランスがド・ゴールのものとなったことは動かし難い現実です。八方塞がりの窮地に追い込まれたサンテックスの様子は、傍目にも異常なものであったと言います。「自殺」を決意したとしても、何の不思議もありません(以前から噂となっていた「遺書」の存在が、今回の出版で明らかにされました)。

 自殺を決意するにあたって彼の想いの中には、アンデスで奇跡的な生還を果たしたギヨメのエピソードがあったはずです。

 1930年6月(南半球では冬)、雪と氷のアンデス山中に墜落(不時着失敗)したギヨメは、標高3500メートルのディアマンテ湖畔から、這い・転び・滑り落ちたりしながら4000メートルの鞍部を超えて、食料も雪中装備も防寒具もなく靴さえ失った状態で5日間歩き続けて標高1220メートルまで辿り着き、朦朧とする意識のうちに遂に石積みの粗末な小屋を発見しました。現地民のガルシア夫人に「ボク迷子の操縦士。お金沢山」と片言のスペイン語で助けを求め、15km を馬で、更に 50km を自動車で運ばれた地点で、道路脇に(無謀にも)強行着陸したサンテックス機に乗せられて、病院に担ぎ込まれました。この超人的な(ギヨメ自身「どんな獣にもできない」と表現した)意志の源は、「妻に保険金を残すために、死体が発見される場所までたどり着く(屍体が見つからないと、裁判所に失踪を申請するのに4年以上経過する必要)」ことでした。

 後に残したコンスエロや母マリーのことを考えると、「自殺」はまずいのです。ニューヨークで論敵達に大見得を切った手前も、敵に撃墜されて華々しく戦死するのが最も望ましい死にざまでした。

現状をどう見るべきか

 幽霊は、見たいと願っている人だけが見る
 人は誰でも老いて行きます。加齢変化と呼ばれる肉体的な劣化・衰えは避けられません。たとえば眼球には、角膜・水晶体・硝子体といった、透明な部分があって、光を通過させています。加齢に伴って、薄茶色の色素が沈着して、濁りを生じます。うっすらと均等に濁れば、視野の色彩がくすんできます。年寄りが派手な色彩を好きになりがちなのは、そのためです。
 部分的に濃く沈着すると、陰を作ります。この影は、眼球運動と共に素早く動きます。沈着の仕方によっては、輪郭がはっきりしませんし、視野の隅にできた影は、中心視ができませんから、永久に、はっきりと視認することはできません。「何かいる!」と思って視線をそちらに向けると、なにも見えないのです。【いつも網膜の一定の場所に「影」がありますから、脳の視覚情報系はそれを無視するようにはたらき、普段はその「影」の存在に気づきません(たとえば網膜上に実在する「盲点」は、周囲の光景で塗りつぶされ、存在に気づきません)。何かの拍子に(たとえば、沈着物が大きくなったり、位置がずれたりすると、網膜上の結像位置が以前と異なった部分にはみ出して脳内での抑制から逸脱し)、突然それが見えるのです】
 ここで人は2種類に分かれます。「錯覚だった」と納得して済ませる人と、「何かいるのだ」と信じる人と、です。後者に属する人は、物質的でない「何か」が自分の周囲に存在するのを信じ込むことになります。「幽霊」のうちの一部分は、このような眼球内に実在する「物質」がその正体です。もちろん、その人の眼球内に存在しているのですから、他人に見えるわけがありません。「幽霊」を信じない人は、その「影」を幽霊だと言う形で納得はしません。幽霊の存在を信じる人だけが、「幽霊」を見ることになるのです。その人にとって「幽霊」は「存在」します。その正体は、眼球内に「実在」する沈着物です。【老齢に限りません。個人差がありますから、子供のうちから眼球内に沈着物・傷・屈折率の乱れを持つ人も居ます】
 幽霊の正体は、眼球内ばかりに巣くっているわけではありません【最も多いのは脳内であると思われます】。神・宇宙人・空飛ぶ円盤 . . . 。世の中には、さまざまな形の「幽霊」が「存在」しています。その「実在」しない「幽霊」を「見る」のは、「幽霊」の存在を信じたがっている人だけなのです。

 事実はひとつしかない。しかし、真実は人の頭数だけある。
 「これが事実だ」と信じ込んだものは、その人にとっての「真実」です。でもそれは、普遍的な「事実」であるとは限りません。「真実」を信じ込むことは、各人の自由です。でもそれを、他人に強要してはなりません。重要なのは個人的な「真実」ではなく、客観的な「事実」なのです。【「客観」についての泥沼論議は、この際、避けることにします。】
 冷静に事実を検証するためには、思い込みを排して、証拠に基づいた議論を進めなければなりません。証拠・論拠によって証明・論証されれば「」。否定されれば「」。どちらでもなければ「保留」です。

 証拠・記録皆無
 現在のところ、リッペルト説を支持する証拠はひとつもありません。逆に、複数の証言・記録が、「あり得ない」と指摘しています。答えは「」なのです。

 サンテクスは「撃墜死」であって欲しいと願っている人々がいます。これを機会に金を儲けたい人も居ます。「泣ける」エピソードで高揚感と満足感を得たい人も大勢います。これらは、影さえあれば、それを「幽霊」と思いたい人々です。いや、影を作って幽霊を仕立てたい人さえ混じっているかも知れません【過去にはそのような人が存在しました】。事実なのか真実なのか、よくよく目をこらすことが必要なのです。

なぜ9月まで留保するのか

 経験と教訓:ブレスレットの出現とリュウ島沖での乗機残骸発見
 いろいろな詐説・欺説が一気に吹っ飛んでしまうそもそもの始まりは、1998年9月7日、トロール漁船ロリゾン号が、石灰化した銀のブレスレットを網にかけたことでした。そのニュースは 1998年10月28日のプロバンス紙朝刊の第1面トップで報じられるや、世界中が沸き立ちます。すぐさま巻き起こったのがブレスレットの真贋論争でした。悪名高いダゲー一族がしゃしゃり出てきて、ことをねじ曲げてしまいました。科学的な鑑定を進めようという矢先に、訴訟をちらつかせながらブレスレットを取り上げ、証拠を示すことなく「ブレスレットはニセモノだった」と発表したのです。ニセモノであればダゲー家に所有権はありませんから、即刻返却すべきなのに、何度要請されても返そうとはしませんでした。そのため、客観的な鑑定が大幅に遅れることになりました。【科学的な鑑定を妨害するために、強奪・私蔵を図ったのではないかと疑われます。】
 ブレスレットをニセモノと決めつけられて、詐欺師呼ばわりの不名誉と地域住民からの迫害に苛まれることになった発見者達は、サンテックス機を発見する以外に名誉を回復する手だてはないと覚悟を決めます。死闘と呼んで良い努力が始まりました。2000年5月26日(金曜日)、今度はル・フィガロ紙のサンテックス機発見のスクープが全世界を駆け巡ります。今回も、またぞろダゲー一族の妨害をはじめいろいろあったのですが、最終的にサンテックス機であることが確認されました。

 ブレスレット発見の報が伝えられたとき、私はニセモノだろうと思いました。まず第一に、そんな海域でサンテックスの所持品が見つかるとは、とても考えられなかったからです。第二に、海に沈んだ小さなブレスレットが、54年の後に水揚げされるなどということが起こり得るとは、とても信じられなかったためです。したがって、この海域で P-38 型機の残骸が見つかったと報じられたときも、サンテックス機であろうとは思いませんでした。この海域は、サンテックス墜落海域の候補には挙がっていませんでしたから。
 顔色が変わったのは、「着陸ギアが J 型」であり、「J 型装置を持つ P38/F5B でこの近辺(地中海域の南仏)に海没した(およびその可能性がある)のは3機のみ」で、「そのうち2機は既に発見されており、残るはサンテックス機だけである」と続報が走ったときでした。現物が発見され、それがサンテックス機以外の物ではあり得ない以上、それ以外の海域を候補とする推測は、空虚な“スペキュレーション”でしかありません。“ストーリー”をこそ、新たに構築し直すべきなのです。

スペキュレーション :“It's just a speculation.”学会発表で質問者からこう浴びせられたり、返却された論文原稿に、このようなレフリーからのコメントが付いてきたりしたら、科学者としてこれほどの恥辱はありません。「根拠を示さず、都合のよい筋書を述べているに過ぎない」と言われてしまったのです。
 実は、自分で使う場合と、他人から表されるのとでは、ニュアンスが異なるのです。学会発表の締めくくりで「これは speculation に過ぎないのですが」と切り出したり、「その結果を、あなたはどう speculate するのですか?」と質問されて、それに応える場合、提示した実験結果に対する説明・解説で、どのような仮説を抱いているか・この後どのような実験を進めようとしているのか、を示すことになります。それとは逆に他人から“speculation”と指摘されたら、最初に述べたように、「根拠がない」と非難されたことになります。

 数年後、エンジンカバーに刻印された記録番号が、サンテックス機のものであると確認されました。

 これは極めて教訓的な経験でした。信じられないほど突飛な内容でも、事実の前には謙虚であらねばなりません。仮説に合わない発見を無視するのは、本末転倒です。事実を積み上げて、仮説を検討して行かねばなりません。「事実」こそが全てなのです。新しい事実が出現するかも知れないのであれば、その「仮説」を捨て去ることはできません。

 リッペルト説との相違
 しかし尚、リッペルト説は極めてきわめて怪しげな「仮説」なのです。否定的な「証拠」は複数提示されています。リッペルト証言が生き残るためには、これらの否定的証拠を全てひっくり返すか、それを凌駕する決定的な新証拠を提出する必要があります。首の皮一枚でつながってはいるものの、リッペルト説が生き返る可能性は、奇跡以外にはないように思われます。
 ブレスレットや乗機残骸発見のとき、それを「否定する証拠」はひとつもありませんでした。「信じがたい」というだけのことだったのです。リッペルト説は違います。積極的に否定されているのです。それをはね返す強力な「新証拠」があるか否か、9月にはその最終的な結論が出ます。それまで待てばよいことですし、待つべきでもあります。それが客観的な冷静さというものでしょう。

 万一リッペルト説が本当だったら
 そんなことは起こらないと思いますが、もしリッペルト説が事実であったとしたら、必然的に導き出される結論がひとつあります。「サンテックスは、消極的自殺をした」のだということです。制空権を持たない空域を、ゆっくり飛んでいたというからには、撃墜されることを期待して「そのとき」を待っていたということ以外の解釈はあり得ないのです。

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